駒形神社 岩手県奥州市水沢区中上野町(本社)
岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根駒ケ岳(奥宮)
岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根駒ケ岳雛子沢(里宮)
式内社(陸奥国胆沢郡 駒形神社)
旧・国幣小社
現在の祭神 駒形大神(天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火火出見尊)
本地
大日嶽大日如来
駒ヶ嶽馬頭観音

「封内風土記」巻之十九

西根邑 駒形神社[LINK]

伝云。景行帝。四十年。日本武尊征伐東夷時。祈国土安寧而所勧請也。 所祭大日孁尊(中)天常立尊(左)国狭土尊(右)吾勝尊(中)置瀬尊(左)彦火尊(右)以上六神。 号之駒形大明神。 希文按。延喜式神名帳所謂。駒形神社是也。

観音堂[LINK]

在駒嶽仙台。南部対境之間。 是以両主相与修補造営其堂宇。 伝云。仁明帝。嘉祥三年。 慈覚大師造之。 希文按。延喜式神名帳所謂。駒形神社也。 土俗誤伝以本地仏為主称観音。

「国幣小社駒形神社誌」

第三章 御祭神と座数

第二節 本地垂跡説

 次に仏者が本地垂跡説より附会して当社祭神の本地仏を馬頭観音としてから、当社祭神は多く観世音と誤られ給ふに至り、神社も観音堂と呼ばるゝに至つたが猶ほ連峯の最高峯を大日嶽と呼び大日如来をその本地仏とした。 これも諸国の駒ヶ嶽駒形山には多く見る現象で、又共通の信仰と見てよい。 猶ほ
山間有岩窟濶三尺、高一丈、長二間許、内銅台置馬首仏、大日、虚空蔵、
とある故、馬頭観音、大日仏以外に虚空蔵をも祀つて居たらしく思はれる。

第三節 忍穂耳尊説

此の祭神の順序は封内風土記当郡西根邑駒形神社の條に、
伝云、景行帝四十年、日本武尊征伐東夷時、祈国土安寧而所勧請也、所祭大日孁尊(中)天常立尊(左)国狭土尊(右)、吾勝尊(中)置瀬尊(左)彦火尊(右)以上六神、号之駒形大明神、希文按、延喜式神名帳所謂、駒形神社是也、
とあるのを正説とすべきであらう。
[中略]
而して此の中央左右と云ふ神座から考へると、六神の内二柱のみが主神で、他の二座づゝは相殿として配祀したものの如く思はれよう。 即ち
第一は大日孁尊を主神として中に置き、国常立尊と国狭土尊とを左右に配したものであり、第二は吾勝尊を主神として中に置き奉り、置瀬尊と彦火尊とを左右に配したものである事か容易にわかる。 而して第一の主神天照大御神は本地垂跡説より云へば大日如来に当る故、駒形連峯の主峰を大日嶽とするに関連のある事が明白であり、それに国常立尊と国狭土尊とを配したのは国土最初の神である為であらう。
 次に第二の主神を吾勝尊としたのを如何なる理由に基くかを考ふるに、吾勝尊とは正哉吾勝勝速日天之忍穂耳尊の事であつて天照大御神の御子神である。 然らば第二の主神は第一の主神の御子としたもので、駒形連山の内駒ヶ嶽が大日嶽に次いで第二の高峯であると云ふ事から、駒ヶ嶽を大日嶽の子となし、神に於いても大御神の御子吾勝尊を当社の主神と推し奉つたものであらう。 而して置瀬尊と彦火尊とは吾勝尊の御子である故に、左右に配祀奉つたものと思はれる。

第三章 御由緒

第十節 神宮寺と里御堂

 奈良朝以来仏教興隆の結果として、神宮寺とて神社の為にも寺院の建立する風が創り、下つて平安末期頃よりは神仏同体、本地垂跡等の説が盛んに行はれて、遂には神仏の混淆が全国津々浦々に普くに至つた。 当社の如きも此の例に漏れず、神宮寺も出来、又駒形の神は其の名称より畏れ多き事ながら馬頭観音と同一視さるゝに至つたのである。
[中略]
封内記に、
観音堂四、其一、在駒嶽、仙台南部対境之間、是以両主相与修補造営其堂宇、伝云、仁明帝嘉祥三年慈覚大師造之、希文按、延喜式神名帳所謂駒形神社也、土俗誤伝以本地仏為主称観音、
と見ゆる観音は奥宮にあつたのであつて、嘉祥三年慈覚大師造之とある故、これが宝徳寺の本尊と思はれる。 而して更に、
其二、号里御堂、山上禁婦人之登拝、故建堂於山麓、使婦人拝之
と載せて居る。
 其処で以上三観音堂の関係を考へるに、宝徳寺と云ふものは駒形神社の神宮寺で、其の本地仏馬頭観音を本尊とし、更に其の後胆沢和賀両郡の登山口に里御堂を建てた。
[中略]
 此の当社の神宮寺なる宝徳寺が何れ程栄えた寺であつたか、それを窺ふ資料はないが、此の山に濶さ三尺、高さ一丈、長さ二間ばかりの岩窟があつて、内に銅台を蔵し、馬首仏(馬頭観音)及び大日虚空蔵を置くと封内記に見えるのは、此の寺の堂舎の一つであつたらう。
[中略]
 斯くして駒形の神境は全く仏地と化し、駒形の神は其の名称より馬頭観音を本地仏とし、之に大日仏を配するに至つたが、これは単に当社ばかりでなく、他の駒形山駒ヶ嶽も多くもさうであつた事は前述した処である。