「岩瀬村小松神社由緒」
観台山熊野白山両大権現は、曩古人皇高倉帝馭宇承安の年。
内大臣正二位左近衛大将平重盛公深く大権現帰敬の志を運ひ、諸国に神祠を経営し両大権現を勧請し奉るの日、当社又厥一也。
当所盛運の時に鐘て社頭宏麗にして規製功を極め、院寓薨を接す。
実に武野州郡の荘観なりしとぞ。
然ルに星物移換して窪隆更に改る。
中古永享応仁の頃より以降群雄州郡に割據して、京都柳営の教令を蔑如し。
鎌倉管領の指麾に応ぜず。
天下皆迭に怨害仇讐を締んで戦国となる。
此の際に曁て所有神社仏閣寖荒廃に属す。
元亀より天正の秊に至て毀頓益々甚し。
当社も亦た此の衰運に曳れて法施に奉つるの住侶、祭祀に事はる巫祝も或は存し或は亡し、殆と告朔の餼を廃せんとするに至れり。
依て往古以来所伝の祭器法具及御記録皆散失す。
然ルに羽生城主木戸伊豆守忠朝父子久しく当社の霊験掲焉なるを信仰し、百六代後奈良天皇天文二十三(甲寅)年社頭を修理し奉り。
両社の本地阿弥陀如来、十一面観音自在の尊像を再彩す。
「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」
小松神社
羽生市小松280(小松字往還西)
歴史
社記によれば景行天皇の代、日本武尊が東征の途次、当地のアラカ土手に陣営を敷き、ここに小祠を建立、伊弉諾命・伊弉冉命の二柱を祀ったという。
[中略]
元和二年鋳造の小松村銅鐘銘写しによると、承安年間(1171-75)小松内府平重盛は当社に熊野白山両権現を勧請する。
これは浄土往生を願う重盛の信仰から起こり、本地仏に阿弥陀如来と十一面観音を祀ったもので、重盛は治承三年に没し、重臣の筑後守尊崇は出家し。追善のため小松寺を造営した。
遺骨は重盛が日ごろから尊崇し、自らが勧請した熊野白山両権現のそばに埋葬され、目印として銀杏を植え、脇に小松大明神が建立された。
[中略]
天文二十三年(1554)羽生城主木戸伊豆守忠朝は、当社の霊験を信じ社殿を修理、両権現の本地仏二体を彩色した。
また天正十二年(1584)には十一面観音を再造している。
このころから当社も羽生城主の祈願所として羽生領総鎮守の位置を占めるようになった。