金刀比羅宮 香川県仲多度郡琴平町川西 旧・国幣中社
現在の祭神 大物主神
[配祀] 崇徳天皇
本地 不動明王

「金毘羅参詣名所図会」巻二

象頭山松尾寺金光院

本地堂 鐘楼より少し歩めば石の鳥居あり。是を下れば石橋あり、是を越えて正面なり。本尊 不動明王。
[中略]
金毘羅大権現 祭神未詳。或は云ふ三輪大明神、又素盞嗚尊、又金山彦神と云ふ。
[中略]
金毘羅といふ名は仏経に出る所なれば、其の神号を称する事は仏教皇朝に渡れるの後ならんか、和国の神名帳には見へず。 金毘羅は梵語にして此には孔といひ或は黄色と翻す。 金光明最勝王経に此の神名あり。 最勝王経流布の国を守護し説法者を擁護し給はんとの本誓也。 又一説に天竺に象頭山金毘羅神の居所ありと。 又曰く釈尊出世の時、仏法を守護の為にとて天竺に出現し給ふ。 則ち修多羅、所謂耆闍窟山の金毘羅神是なり。 釈尊入滅の後、舎利を分けて此の地へ渡り給ふと。 又説に三輪明神、清滝権現、新羅明神、同神の異名なりとも。 或は素盞嗚尊にして三国流転して仏法を守護し給ふ。 震旦には武塔天神、牛頭天王と号し、天竺にては摩訶羅神という。 雲石阿闍梨の曰く、我聞く大物主命、天竺にゆきまして彼の土にて金毘羅といひしとかや。 伝教大師が神域に通じ、金毘羅三輪一体と釈し給ふことあり。 経の中に演ぶるに釈尊に提婆大磐石を投げし時、神手をさゝへ給ふは此の神なり。 即ち祇園精舎の鎮守とし給ふものなりと。 尚権現の霊験奇怪は言語の及ぶ所にあらず。 権現の御神躰は本社の上の方に巌窟あり、其の中にまします由。

「金毘羅山名所図会」

本社金毘羅大権現[LINK]

本社は東面にて、釣殿拝殿の極彩色絶妙、世にたくひなく、軒に数百の釣灯籠あまたありて、本社の下をめくるを宮めくりといふ。 石垣・玉垣は高松太守頼恭公の寄附なり。 神前銅灯籠高松公累代の寄附也。
金毘羅大権現当山に御鎮座事は、遠く神代の事にして、幾百万年といふ事をしらす。 又まつる所の御神名等は、昔より秘にして、外より伺ひ知るへからす。 しかりといへとも、今かしこにかたり伝ふる所をもて、こゝにしるす。 抑我人皇十二代景行天皇(大足彦忍代別天皇)第二皇子日本武尊(小碓尊と申奉る)吉備武彦之女吉備穴戸武媛をめとり給ひて、武鼓王と十城別王とあれます。 其兄武鼓王(又名武卵王)大命をもちて此国にくたり給ふ事ありとそ。
[中略]
かくて其後此国にとゝまりましまして、十四代仲哀天皇八年九月十五日、讃岐国に薨します。 其年一百二十二。 後人諡して讃留霊公と申奉る(讃岐国に留り給ふゆへなりとそ)。 されは此命、当国に留まりましまし国造りかためましますをり、此松尾山にきたりましまして、曰、此山に此国うしはき給ふ神の霊鎮ります。 祭らすんは有へからすとて、相従ふ従をいて、松尾の山霊を祭、国つくりかたむるの事をいのり給ふ事、薨し給ふ迄おこたり給はすとそ。 其後遥に年を隔てゝ天武天皇の御宇、大和国役小角、此国にわたり来り給ひて、曰、此国いにしへ武鼓王、国津神を松尾山にまつり給ふといふ事を聞り。 必神仙の霊地なるへし。 我其山にいたりて仏法修行すへしとて当山によしのほり、つひに不動明王の像を彫刻ましまし、一座の草堂を結ひ給ふ。 是松尾寺の権輿なり。 其彫刻し給ふ所の尊像は、今の本地仏不動明王是なり。 故に今も神前の修法は、不動明王の法を用ゆ。
[中略]
又云、金毘羅大権現と申奉る御名の事、奉祭所の御神名さたかならさるにつき、とかくに論する人ありといへとも、本山の寺記にあらさる事なれは、より処とする事なし。
それか神道者流には三輪明神・清瀧権現・新羅明神の三神合せ祭るといひ、又葛城一言主神を祭るともいひ、又崇徳上皇の御霊を祭るともいふ。 しかりといへとも讃岐院の御廟は、あやの松山白峯寺にして当山より六里東北にして、全く相混すへからず。
又浮屠氏の云金毘羅神は、増一阿含経第四(十六帋)曰、提婆達兜到耆闍窟乎、大石十肘(二尺四寸)広十五肘、而擲世尊。是時山神金毘羅、恒住彼山、見提婆達兜抱石打仏、即時伸手接著余処。爾時石砕、一小片石著如来足、即時出血(已上)。 又亦法苑珠林七十三(十六左)興起行経詳也。 法華文句八之二(五帋)曰、仏在阿耨達泉、告舎利仏曰、我於耆闍窟経行。提婆達多於高崖挙石長三丈闊丈六、以抑我頭。耆闍窟山神名鞞羅、以手接石、小片等迸随、傷仏弟等母指(足母指也)出於仏血(已上)。 大宝積経有金毘羅天品、其説相異上所引説而已。 又高雄文庫に金毘羅天童子経といふものあり。 世に流布せされはしるへからす。 或人曰、其説相を閲するに、如来滅後五百歳におよひ、種々の留難あらん。諸衆生水火及刀杖難にあひ、或は賊難鬼難にあひ、或は諸病苦或貧苦にあふは、我かの衆生を哀んて、金毘羅天童子となつて、速に諸の衆生を度せんとあるといへり。 されと上にもいへることく世に流布せさる経なれは、しるへからすといへり(又白井宗因子は、讃岐二十四社の雲気の神社とも書り)。
如此此余くさくさの説みなおのれおのれか道に相引て説といへとも、すへて無稽の説にして取るにたらす。 当山はたゝ日本一社の神にましまして、遠く神代より此所に鎮座まし、霊公これを知りて祭り給ひ、役小角本地仏を彫刻し給ふ処にして、世間より伺ひしるへきにあらす。 又神名御神体等は本山の秘中の秘にして、かるかる人のしらるへきにあらすといへり。

「椿説弓張月」拾遺篇附言

金毘羅名号ならびに安井金毘羅之事

讃岐国鵜足郡に霊山あり、象頭山と号。 山の勢おのづから象の頭に似たり。 祭神一座、これを金毘羅大権現と称ふ。 按ずるに和漢三才図会に云。 金毘羅権現は、鵜足郡にあり。 祭神いまだ詳ならず。 或はいふ三輪大明神。 又はいふ素盞烏尊也云々。 この説頗誤れり。 夫金毘羅は異域の善神、仏法守護の明王なり。 今象頭山の別当を金光院と号す。 社家雑れり。 開基の年月詳ならず。 世俗崇徳院天皇を配祀といふ。 これらの弁は下にいはん。
讃州覚城院南月堂三等の金比羅名号考に云。 増一阿含経第四に曰。(経文今婦幼の為に国字に訳す。下皆これに倣へ) 提婆達兜、耆闍窟に到て、大石十肘(十肘は二尺四寸なり)広五肘なるを、世尊に擲んとす。 山神金毘羅彼山に住せり。 提婆達兜が石を抱て、仏を打を見て、即時に手を伸て余処に接せり。
○亦天台妙文句八之二に曰。 仏阿耨達泉に在て、舎利仏に告て曰。 我耆闍窟に於て経行せしに、提婆達兜、高崖に於石の長三丈。闊丈六なるを挙て、以我頭を抑としつ。 耆闍窟の山神を鞞羅と名づく。 手を以て石を接す云々(鞞羅は即金毘羅)。 亦法苑珠林七十三に、興起行経を引り。 引ところの文上のごとし。
○亦宝積経金比羅天授記品曰。 爾時世尊、王舎城に入りたまひ、四衆に囲繞せられて、容儀痒痒序たり。 時に王舎城を護る諸天夜叉、大善神王あり。 金毘羅と名く。 如是の念を作す。 今如来の形想殊異にして、世間の中に於、最勝遇難し。 人天の供養する所を受るに堪ん。 我等今、当応種々の上妙供具を以、如来に奉献すべしと。 この念を作し己て、便最勝の飲食、具足の香味、成就の妙色を以、仏に奉上す。 爾時世尊、其献ずる所を愍の故に納受なしたまふ。 時に金毘羅王の領する所の夜叉衆、六万八千、虚空の中に在て、随喜を生ず、云々。
○亦不空三蔵所翻の、金毘羅天童子経ニ曰。 仏歓喜園中に在して、諸衆生の為、説法し給へり。 是時外道波旬、諸悪障を起して、諸衆生をして、大苦悩を受しむ。 爾時如来、密に自身を化して、金毘羅童子と作て、外道諸魔を調伏し、悪世の中に於、衆生を饒益し給へり。 已上、見つべし。
諸経文に載するところ、金毘羅は、仏法守護の大善神、或は釈尊分身の自在明王たり。 既に六万八千の薬叉衆あり。 薬叉天狗、亦等類、地蔵経に所見あり。 寺島が和漢三才図会に、象頭山の天狗を、金毘羅坊と名く、霊験多し、祟る所も亦甚厳なりといへり。 此に天狗と唱るものは、所謂金毘羅王所領の、大薬叉なるべし。
○金毘羅翻名本地の弁に云。 大宝積経に、金毘羅天といへり。 又金毘羅神王、亦金毘羅といへり。 大般若経には、迦毘羅神と説。 薬師経には、倶毘羅神と説。 大日経に倶鞞羅と説り。 皆梵語の転声也。 天台妙文句に鞞羅といふ、蓋旧訳の略ならん。 金毘羅は、此に翻して威如王といふ。 言は、この神の威勢通力譬ば世間の王者、其邦内に於、能自在を得たるが如し。 故に以これに名つく。
其本迹を論ずるに、大宝積経に由ときは、本地釈迦如来なること明けし。 又増一阿含経及興起行経等に由ときは、本地不動明王なりといはんも、亦宜也。 然れども、其実を約する時は、同一法身なる故に。釈迦は、即不動、不動は即釈迦にして、不二即離不謬。 又旧説に曰。 本地に顕密二仏あり。 八幡宮、天満宮の類あり。 なお深旨ありといへり。