「新編武蔵風土記稿」巻之四十七
(荏原郡巻之九)
下目黒村
宝幢寺
境内年貢地一万坪村の北によりてあり、曹洞宗、山城国宇治田原禅定寺末、鳳林山伝燈院と号す、
[中略]
金毘羅権現社 境内にあり、三間に七間、幣殿三間四方、拝殿七間に三間、向拝三間四方、東に向ふ、
金毘羅権現の五字を扁す、
神像は木像、作知れず、長一尺五寸、
祭礼年々十月十日、神楽を奏す、
御城鎮護の神と仰ぎ、九條家より鎮護社の三字を賜はり、今寺に納む、
又弁天の像あり、長五寸余、厨子の中に安じて堂中にあり、神奈川宝幢寺に伝へし旧物なり、
寺伝に云高峯常に此の弁天を信ず、一日坐禅の間一睡を催す、
時に霊夢を蒙り多年の心願成就の期至れり、その証として一銭を賜るとみて夢さめたり、
高峯奇異の思をなし、懐中を探るに果して一銭を得たり、
高峰歓喜浅からず、程なくして当社を建立しける、
後銭をば銭婆神と崇め、今に社壇に安ずと云、
[中略]
本地堂 表門を入りて左にあり、三間半に二間半、金毘羅の本地正観音の木像を安ず、
長一尺許岩石の上に踞す、
此余釈迦及十六羅漢摩訶迦葉達磨の諸像を安置す
宝幢寺・金毘羅権現社は明治初年に廃寺となり、現在は「金毘羅坂」にその名を残している。
旧・宝幢寺は明治32年に天真山東川寺(北海道上川郡東川町)として再興され、「金毘羅大権現」の額も同寺に伝わっている。
参考:江戸下目黒・高幢寺