熊野神社 滋賀県草津市平井町3丁目 旧・村社
現在の祭神 速玉男神・熊野櫲樟日命・事解男神
本地
早玉宮薬師如来
本宮阿弥陀如来
那智千手観音
若宮十一面観音
禅師宮地蔵菩薩
聖宮龍樹菩薩
勧請十五所釈迦如来
飛行夜叉不動明王
米持金剛童子毘沙門天

「草津市史」第1巻

鎌倉の美術[LINK]

 熊野神社の熊野本地仏像は、熊野神社左側の本地堂に安置される。 本地仏は薬師如来坐像一躯・阿弥陀如来立像二躯・千手観音立像一躯・十一面観音立像一躯・地蔵菩薩立像二躯・毘沙門天立像一躯・不動明王立像一躯あわせて九躯よりなっている。
[中略]
 熊野神は三所権現・五所権現・四所権現、合わせて十二所権現より構成され、その垂迹と本地は次の通りである。
  三所 証誠殿(本宮) 阿弥陀如来
     早玉宮(速玉) 薬師如来
     結宮(那智)  千手観音
  五所 若宮      十一面観音
     禅師宮     地蔵菩薩
     聖宮      竜樹
     児宮      如意輪観音
     子守宮     聖観音
  四所 一万宮・十万宮 普賢・文殊
     勧請十五所   釈迦如来
     飛行夜叉    不動明王
     米持金剛童子  毘沙門天
 これによって熊野神社に現存する九躯を当てると、薬師如来は早玉宮、阿弥陀如来二躯のうち一躯が証誠殿、千手観音が結宮(以上が三所)、十一面観音が若宮、地蔵菩薩二躯のうち一躯が禅師宮、他の一躯が聖宮(以上が五所のうち)、不動明王が飛行夜叉、毘沙門天が米持金剛童子となり、三所が完存する。 しかし、五所は児宮の如意輪観音と子守宮の聖観音の二所を欠き、四所は一万宮・十万宮の普賢・文殊、勧請十五所の釈迦如来が失われている。 しかし、この九躯は後補の個所が各尊に見られ、形姿を同じくする阿弥陀如来二躯のうち一躯は、後世に手先が後補されたときに釈迦の印相を誤って弥陀同様にした可能性が強く、造像時は、勧請十五所の本地仏釈迦如来であったと考えられる。
 このように考えると十二所権現のうち、三所を欠くだけとなる。 古老によれば明治初年の神仏分離令によりこの本地仏を焼き出したが、恐れをなして一部にとどめたと伝えており、このときに三所を失ったとみられ、本地堂内の焼けただれた仏像一躯はこれを裏付けている。
[中略]
不動明王立像を除いてはすべてが鎌倉時代の造像で、熊野本地仏の彫像として意義深い。 この群像は薬師のみが坐像で、他の諸像はすべて立像であり、熊野速玉信仰が中心となって展開する熊野本地仏であることがわかる。 社伝によると、熊野神社は建保六年(1218)二月二十三日に神託を蒙った佐々木信綱が紀伊国熊野より勧請したと伝えられるが、この群像も一部を除いてはこのころに近い作品と考えられる。 この伝承はさておき、十三世紀には草津市域にも熊野信仰の伝播していたことが知られる。

「かみとほとけのかたち: 湖南地方を中心とした神像と本地仏の世界 企画展」

熊野神社本地仏像 七躯

  草津市 熊野神社
  木造 像高82.4~101.1
  平安時代(十二世紀)

 草津市平井町に鎮座する熊野神社は、建保六年(1218)に佐々木信綱が神託をこうむり、熊野より勧請したと伝えている。 さらに天正七年(1579)の兵火に罹って回禄した熊野権現社は、平井加賀守基綱によって再興され、そのときに本地堂も建立され、末社に祀られていた熊野十二所権現を本社に合祀したと伝えている。
 熊野神社本地堂は今も熊野神社境内にあって、往時の景観をとどめていることは記帳である。 堂内には平安時代から室町時代にわたる本地仏九躯を安置するほか、炭化して原形をとどめない焼損仏がある。 廃仏毀釈のとき、多くの像を救うため、あえて一体を焼いたのだと地元では伝えている。 作風・構造を事にする不動・毘沙門を除いた七躯は、薬師如来を中心に配されている。 薬師のみ等身坐像になり、ほかは立像となるから、熊野神社本地仏は早玉系になることが知られよう。
[中略]
 阿弥陀如来(本宮)二躯、千手観音(那智)、十一面観音(若宮)、地蔵菩薩(禅師宮)二躯だが、手先は後補となり、阿弥陀のうち一体は釈迦(勧請十五所)であり、地蔵も一体は竜樹(聖宮)に当てられていたであろう。
[中略]
熊野詣は院政期に急に盛んとなったが、こうした熊野信仰の隆盛を背景として平井の地に熊野社が勧請され、本地仏の造像がなされたのであろう。 熊野の本地仏がこれだけまとまって伝来しているのは貴重である。