杭全神社 大阪府大阪市平野区平野宮町二丁目 旧・府社
現在の祭神 素盞嗚尊 <第一殿>
伊弉冊尊・速玉男命・事解男命 <第二殿>
伊弉諾尊 <第三殿>
[配祀] 若歳神・正哉吾勝勝速日天忍穂耳命・天穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多岐都比売命・多紀理毘売命・佐依比売命
本地
牛頭天王薬師如来
熊野権現阿弥陀如来

「なにわ・大阪文化遺産学叢書18 杭全神社宝物撰」[PDF]

杭全神社について(藤江正謹)

 杭全神社の御創建年については、享保三年(1718)に成立した『平野郷社縁起』(以下『郷社縁起』)や『摂津名所図会』など、貞観年中と記されたものがほとんどであるが、一部に貞観四年(862)と記したものが存在する。 貞観四年説は『大阪府誌』や『東成郡誌』、『東住吉区史』など明治以降の資料に限られ、いずれも「社伝によると…」と説明されている。
[中略]
 『郷社縁起』では 「昔、坂上某に神託ましまして、我はこの郷の地主神なり。時の至るを待つこと久し、則ち山城の国愛宕郡八坂郷祇園の牛頭天王これなり、今よりこの郷にあがめ祭りなば安穏人民豊楽を守らんと宜ひ、まのあたり影向し給ひしかば、有難覚侍りて、勧請し奉りしと…」 という書き出しで、第一本殿である牛頭天王社の由来を書き起こしている。 牛頭天王という神は、祇園信仰の興隆とともに奈良時代末から平安時代初期に現れる神で、『古事記』や『日本書紀』などに登場する、いわゆる古典所載神ではない。 素盞嗚尊を両部神道によって祇園精舎を守る牛頭天王として祀る信仰であり、疫神として当時最も恐ろしい事象であった夏の疫病を支配するというこの神の性格が、荒ぶる神、祟る神として恐れられていた素盞嗚尊の性格と重ねられて習合したと考えられる。
[中略]
 降って建久元年(1190)に第三本殿熊野証誠権現が、元亨元年(1321)に第二本殿熊野三所権現が勧請された。 『郷社縁起』では、第三本殿については 「抑当社に熊野証誠大権現の尊形遷座ましましけるは後鳥羽院の御宇建久元年三月三日、当社へ山伏一人笈を負ひ来たり社僧にかたりて曰く、役の小角御手づから彫み給ふ熊野証誠大権現の尊形を付属すべし、当社牛頭天王とならべてあがめ奉りなば、此の郷を守らせ給ひ長く繁栄の地とならんといひ侍り(中略)まぎるべくもあらず熊野証誠大権現と拝み奉りぬ、殊更種々の奇瑞ありしかば七名の長是をはかり、日あらずして社壇あらたにし奉り、尊形鎮座ましまして証誠殿とあがめしかば、貴賎心を傾け遠近歩を運び、神慮を仰がざるはなかりき」 と説明され、第二本殿については 「後醍醐天皇の御宇元亨元年、当社熊野権現影向の来由を天聞に達せしかば、叡慮浅からず詔勅ましまして、証誠殿の社再興ありて更に熊野三所権現を勧請し奉り、此一郷の総社にいはひ、若一王子等の諸社、熊野権現の本地阿弥陀如来安座し給へる宝塔以下の諸堂修造こと終り、華表の額熊野三所権現と宸翰をそめさせ給ひ、神宮寺社僧宝祚長久を祈り奉るべき宣旨を下し給ひぬ」 と記録されていて、現在の境内配置が元亨元年にほぼ完成したことがわかる。

宝物解説

薬師如来立像

 厨子入りの小像で、左手に薬壺を持つ立像である。 一木造ながら摩耗が激しく製作時期は定かではない。 牛頭天王の本地仏として神宮寺に伝わったとされる。 他の仏像と同形の厨子に納められており、ある時期に仏像の厨子が新調されたことがうかがわれる。

釈文

平野郷社縁起

〔上巻〕
摂津国住吉郡平野郷に鎮座まします熊野大権現ハ、我本朝天神第七の霊伊奘冉尊にてそおハしける、 たつぬるに夫伊奘冉尊火の神をあれまし給ふ時、やかれて神退ましぬるを、紀伊国牟婁郡熊野の有馬村に葬められしより、土俗此神の御魂を祭りて熊野の社とあかめ奉りし也、 又伊奘諾尊逐て伊奘冉尊のいます所にいたりて、帰らんとし給ふ時、唾はく所の神を速玉の男と名つけ、是を掃ふ神を泉津事解の男と名つけ、或ハ事結の神ともなつく、 仍熊野三所と申ハ、伊奘冉尊速玉の男事解の男三神にてそおはしける、 則当社に勧請し奉る熊野三所権現是也
(絵)
蓋聞、役小角ハ和州葛木上郡茅原村の人にて、神異不思議の行者、本朝修験道の高祖たり、 年久しく葛木山に住、藤を衣とし松を食として、常に孔雀明王の呪を持し、雲に駕し風に御し仙宮にあそひ、鬼神をつかひ名山霊区処として経歴し給はすといふことなし、 時に人皇四十四代元正天皇の御宇、小角熊野の社に詣給ぬ、 かけまくもかたしけなくも此御神長頭巾をめされ、忽然として示現し給ひ、しれりや、吾ハこれ証誠不思議者権現也と宣ひしを悦ひ、うやうやしく信して尊形を御手つから彫み給ひ、それより証誠大権現とあかめ奉られしと也、 其後五百年を経て此郷に遷座ましませり、 則当社証誠殿の尊形是也
(絵)
此郷は往昔杭全庄と申侍りしを、人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、征夷大将軍大納言正三位坂上大宿禰田村麻呂の男右兵衛督従四位下広野麻呂に賜りて、庄園とし侍りしより後裔爰に伝り、いつとなく広野を以て所の名とよひしか、後世に転して平野といふなり、 伏聞、むかし牛頭天皇坂上某に神託ましまして、我は此郷地主の神也、時の到るを待こと久し、則山城国愛宕郡八坂郷に跡をたれて、祇薗牛頭天皇といふは我こと也、今より後此郷にあかめ祭なは、国家安穏人民豊楽を守らんと宣ひ、まのあたり影向し給ひしかは有難覚侍りて、勧請し奉りしと也、 時に彼影向し給へる所に、俄然として生たる松なれハとて今に残りて、当社影向の松とそいひ伝へ侍りける
(絵)
夫牛頭天皇ハ我本朝地神第一の主、天照皇太神の御大弟素戔烏尊にてそおハしける、 爰に人皇四十二代文武天皇慶雲元年、近江国栗太郡の杉の木に影向し給ひ、はしめて牛頭天皇とあかめ奉る、 或ハいはく、天竺にてハ祗薗精舎の守護神、或ハ玻梨天女、或ハ年徳善神と号すと云々、 然ハ則非男非女亦男亦女一躰分身同躰異名の御神にて、吉祥を千古にしき、福祐を万世にほとこし給ふ、 又人皇四十五代聖武天皇天平五年、吉備真備といふ人唐土より帰朝の時、播磨国にて老翁出現し、吾ハ是素戔烏尊也、百王を守り万民を保せんと宣しより、真備是を帝に奏し奉り、詔をうけて社を経営す、 今の広峯の牛頭天皇是なり、 その後人皇五十六代清和天皇貞観十一年、広峯より山城国祇薗の社に勧請し奉るとそ、 又貞観年中に一演法師同国鴨川の西に建立し給ひし感応寺に牛頭天皇化現し給ひ、我ハ此地の主也、今より伽藍神となるへし、我に神力あり、よく魔障を除き疫癘をさり、夫婦のよしミを結ひ産婦の平安を守らむと宣ひしと也、 上の件の来歴を考るに、当社牛頭天皇の勧請も貞観年中のことにやとしられ侍りける、 爾来此郷坂上七名の長当社を掌り神宮寺六坊を建立し、弘法大師の法流を伝へ両部習合の神事を修し、毎日朝暮の読経怠らす、毎年六月九月の祭礼を勤め、国家安泰諸民快楽風雨時若五穀豊饒を祈り奉る社也
(絵)
此郷の野堂村に薬師堂あり、全興寺と名つく、 聖徳太子の御草創にて、則御自造り給へる薬師如来の尊像安座の霊場也、 野堂村といふハ野中に此薬師堂有しより創れる村なれハとて、かく名つけ侍りしと也、 さるにより此郷濫觴の地にして十三村の第一とす、 こゝを以て郷民の渇仰他にことなる事実にゆへあるかな、 又坂上大宿禰田村麻呂病脳を祈り給ひしに、霊験あらたにましまして忽に平愈有しより、崇敬斜ならさる本尊なりしとそ、 曽聞、牛頭天皇の本地ハ薬師如来なりと、 仍此郷地主の御神として影向ならせ給ひ、坂上某神託によりて当社の奥院と仰き来りしと申伝ふること、豈殊勝の故実にあらすや

〔下巻〕
抑熊野証誠大権現の尊形当社に遷座ましましけるハ、人皇八十二代後鳥羽院建久元年三月三日、当社へ山伏一人笈をおひ来り、社僧にかたりていはく、 役の小角熊野の神慮に感して、御手つから彫ミ給ふ証誠大権現の尊形を付属すへし、当社牛頭天皇とならへてあかめ奉りなハ此郷を守らせ給、長く繁栄の地とならんと云々、 然に社僧うけひかされハ山伏跡をけちて帰り去しか、当社より四五町はかりひつしさるの方なる一木の松に、件の笈をかけ置ぬ、 奇哉、其夜今の権現鎮座まします辺へ此松より光をはなてり、笈かけ松とて今に残れるハ是なりかし、 其比当社の境内におゐて一夜に椰の木三本生出て、烏三羽飛来り、人をもおそれす三本の椰にやとれり、今の世まても椰を神木とあかめ、烏を使鳥とするハ是なり
(絵)
厥時人々奇異のおもひをなし、まつに懸置し笈をひらきみ侍るに、微妙端厳の尊形おはしましけれは、身の毛もよたちて、あり難覚へ、まきるへくもあらす、熊野証誠大権現と拝ミ奉りぬ、 ことさら種々の奇瑞有しかは、七名の長是をはかり、日あらすして社檀あらたにし奉り、尊形鎮座ましまして、証誠奠とあかめしかは、貴賎こゝろをかたふけ、遠近あゆミをはこひて、神慮をあふかさるはなかりき、 今に至て例年三月三日祭をなし、社僧拝殿にして法会を勤るは、影向の初をしめすなり、 蓋彼山伏はまさしく小角の化現し給ふとしられて、いとたふとし
(絵)
人皇九十五代後醍醐天皇元亨元年、当社熊野権現影向の来由を天聞に達せしかハ、叡感あさからす、 詔勅ましまして、証誠殿の社再興ありて、さらに熊野三所権現勧請なし奉り、 此一郷の惣社にいはひ、若一王子等の諸社、熊野権現の本地阿弥陀如来安座し給へる、宝塔以下の諸堂修造し終り、華表の額熊野三所権現と宸翰を染させ給ひ、神宮寺社僧宝祚長久を祈り奉るへき宣旨を下し給ひぬ、 仍神徳ますます高く、霊威いよいよ厳にそおはしける
(絵)

「摂津名所図会」巻之一

牛頭天王社

平野郷北の方にあり。 この地の生土神とす。 例祭六月十四日。

熊野三所権現

同所に鎮座。 側に若一王子・八王子を祭る。 毎歳三月三日法会あり。
観音堂 原修楽寺本尊なり。後世こゝに安置す。
大師堂 弘法大師の像を安ず。
行者堂 観音堂の傍にあり。
多宝塔 阿弥陀如来を安置す。
末社 天照太神・天満宮を祭る。其外連歌所・神楽殿・能舞台・絵馬舎・鐘堂等あり。
影向松 門外の東にあり。
弁財天祠 影向松の傍にあり。
鳥居額 後醍醐天皇の宸筆。熊野三所権現と書す。
社記白く、住吉郡平野郷は、むかし杭全庄といひしを、嵯峨帝の御時坂上広野麻呂に腸りて裔孫永くここに住居し、いつとなく広野を所の名によび後世に転じて平野といふなり。 牛頭天王は貞観年中京帥祇園より古松に影向し給ふ。 其より地主神として崇め奉り、影向松とは名付けたり。 爾来此邑坂上七名の長当社を掌り、神宮寺六坊を建立し、弘法大師の法流を伝へて両部習合の神祀を修し、毎年六月・九月祭礼を行ひ待りぬ。 この郷の野堂町に薬師堂あり。全興寺と号す。 聖徳王の草創にて本尊も御自作なり。 野堂とは初め野中にありしより口称し侍る。 天王の本地仏薬師なれば、世人奥院と称しける。
熊野三所証誠殿大権現社は、御鳥羽院の御字建久元年三月三日、一人の山伏笈を負ひ来リ、社僧に勧請の由を告ぐる。 社僧これを肯はざれは、当社四五町坤の方一木の松ありしかば、こゝに笈をかけ置き去りぬ。 その夜今の社地に此松より光を放ちけり。 笈掛松今にあり。 また社内に椰三本一夜に生じ、烏三羽飛び来る。 故に椰を神木と崇む。 其時人々奇異の思ひをなし、かの笈を開き見るに、微妙端厳の尊容まします。 即熊野三所権現と崇め、社を営み、例年三月三日例祭を勤む。 かの山伏は役小角の化現なりとて、今行者堂に崇め奉る。 後醍醐帝元亨元年、当社の来由を叡聞あらせられ、鳥居の額熊野三所権現と書し宸翰を賜ふ。