黒髪神社 佐賀県武雄市山内町宮野 旧・郷社
現在の祭神
上宮伊弉冊尊・速玉男命・事解男命
下宮伊弉冊尊・速玉男命・事解男命
[配祀] 菅原道真・月読尊・大物主命・素盞嗚尊・猿田彦命・神武天皇
本地 阿弥陀如来・薬師如来・千手観音

「黒髪大権現由緒記」

肥前国杵嶋郡宮野村鎮座黒神大権現は、伊弉冊尊を以て垂迹となり、 恭しく神代を稽ふるに、伊弉諾尊・伊弉冊尊既に葦原の八州の庶国及び山川草木の祖始を化生し、天地定あり、民物凝る、 其軻遇突智を産むに至つて、冊尊之れか為めに焦灼れて、而て神退り、遂に黄泉に入り給ふ、 要つて曰く、吾れ当に寝息す、請ふ之れを視ること勿れ、 諾尊聴き給はすして之れを見給ふ、 陰神其の留御まさんことを欲して、醜女を遣はして、之を遂はしむ、 陽神乃ち剣を抜て□□に探りつゝ逃ぐ、 因て、頭に纏へる黒き鬘を投げ、且た、湯津の爪櫛を擲ち給へども、猶ほ遂ふて已まず、 方に黄坂に到て千曳の石を以て、其の泉門を塞ぎ、往て檍原に祓す、 陰陽途を異にし、神化功を成せり、 然して、其投け給ふ所の鬘、熊襲国に止まつて高となる、黒髪山是なり、 又其櫛、日向国に逗て喬き山と為る、櫛振嶽是なり、 斯を以て、櫛振嶽には則ち皇孫他日臨降し給ひ、黒髪山には則ち尊髪毎時遊幸し給ふ、
[中略]
或曰く、摩訶陀国の大王、本邦に来つて、居を当山とし、其髪を薙て之を霊窟に収むと、 載せて一説に備ふ、 土人尊神の岩上に飛遊し、羽衣蹁遷たるを見て、以為らく天童降ると、 故に其岩を名けて天童岩と曰ふ、 時の国造垂迹の奇瑞を奏して、尊神を天童岩霊窟の下に斎奉り、速玉男・事解男二神を以て配享る、 之れ崇神天皇十六年、勅して権現の尊号を賜ふ、以て、黒髪三所大権現と称す、 延暦二十三年弘法大師渡唐の日、地を当山に相て謂へらく、密乗相応せりと、 乃ち、権現に誓て曰く、空海求法の志あつて異域に趣く、幸に海波難無く、伝法師に逢ふて帰ることを得ば、則ち神殿を創復し、法味を謹修せんと、 大同六年、既に帰朝することを得て、再び、当山に登つて居ること数月、手つから不動尊像を刻んて、諸れを壇上に安じ、銅仏千体を鋳せしめて、諸れを窟中に納む、 且た、薬師善逝・弥陀如来・千手観音を措き三所権現の本地とす、 殿宇陋隘にして、規模未た備らず、 弟子快護に命じて、木を掃い、岩を鑿たしめ、神殿并に拝殿を造らしむ、
[中略]
上宮より下ること一町強半、神祠を建て、当山の中宮となす、 其下差垣なる地に就て、高きを鏟り、次きを充て、仏殿を加し護幣所を構ふ、 傍に房舍厨庫を営て、四来の僧侶を居らしむ、 乃ち、奏請して、西光密寺と号す、 長く宝祚の長延を祷り、鎮に国家の安泰を祝す、 是を以て、弘法を当寺の開基となし、快護を住持の曩祖となす、 而て、上宮を去ること三十六町、高平ノ野に於て三神を斎ひ奉る、 即ち当山の下ノ宮なり、神殿・拝殿・御供舍・御奥体・本地堂等宜きに隨つて排列す、 其他、白山・多賀・伊勢・住吉・春日・稲荷、弥勒堂に護法・幣天・幣立・箸立・杖立の諸祠の如き山間往々に有之、 下ノ宮の祭は九月二十九日を恒例と為す

「肥前古跡縁起」

黒髪山

黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子御作也、 昔天竺の大王我朝に飛来り天童岩の許に座し虚空に向て御鬮ををろし給ひ、刹那に法躰の姿と現れ忽権現と垂跡し給ふ、 其鬚髪を納め御宝殿の所と定給ひし故に黒髪山と云

武雄市の文化財一覧[LINK]より

西光密寺の懸仏[LINK]

3面:武雄市重要文化財・工芸品
指定年月日 昭和56年3月30日
所在地 山内町大字宮野 定林寺

 本像は、黒髪神社の本地仏として西光密寺に祀られていたもので、御正体はそれぞれ金箔を施した薬師如来、阿弥陀如来、千手観音の坐像で、頭上に天蓋があり、いずれも台盤は木製銅板張りで円形をしています。 直径は59cm、御正体の総高35cm、で、御正体の両脇には蓮の花を活けた花瓶が描かれています。 銅板には波形・蓮華・雲流の文様が背景として描かれ、最上端に円環が取り付けられています。
 それぞれの台盤の裏に銘があり、「干時寛永六年己巳八月如意吉祥日 / 奉造立(それぞれの仏名)尊像 鋳仏導師 興 / 大願主武雄主殿助藤原朝臣茂綱公敬白 / 仏師 源右衛門尉」と薬師如来には刻銘、他は墨書で書かれています。 寛永6年(1629)に第21代武雄領主武雄(後藤)茂綱の願により、鋳仏導師興と仏師源右衛門によって作られたことがわかります。