松苧神社 新潟県十日町市犬伏  
現在の祭神 奴奈川姫命・大山咋命
本地 馬頭観音

「日本の神々 神社と聖地 8 北陸」

松苧神社(鈴木英昭)

 当社は元来山岳の神仏習合神であり、松苧山大権現あるいは松苧山八社大権現と称し、松之山郷六十六ヶ村の総鎮守として山間の住民に崇められる霊験社であった。 八所の祭神とは天照皇大神・素盞嗚尊・天津彦根命・大国主命・吉備武彦命・平彦別命・四海彦命・四海姫命と伝えられ、かつては犬伏の真言宗林蔵寺が別当として主祭したが、明治の神仏分離令によって松苧権現は松苧神社と改めて祭神を奴奈川姫命とし、別当林蔵寺良快は復飾、のちに神職に転じた。
 松苧権現鎮座の由来については、主に二つの伝承がある。 その一つは、寛文四年(1664)の『松苧大権現略縁起』(松代町松代の市川貫一氏蔵)に語られている。 すなわち、松苧八社大権現は中天竺摩伽陀国から五葉の松と数茎の青苧を携えて舟に乗って天下り、魚沼郡外丸郷辰之口に舟を寄せ(舟繋の地)、それより獅子三騎を陸地ヘ渡し(獅子渡)、次いで松之山へ越える山の頂上にて藁を解き(解藁峠)、その峠の麓の東川村と猪之名村にしばらく鎮座し(両所の鎮守)、それから千年山の中辺に休み(飛岡の松)、松平(松代)を経て御山の麓に着き、しばらく鎮座して供奉の神狗を留め置き(犬伏村)、祓川を渡って御山に登り、丑寅の頂上の高松に鎮座された。 そして山々峰々に手ずから松を植え、さらに万民渡世のため青苧を植えられた。 よって御山を松苧山と称するのだという。 これは仏教主導の本地垂迹説にもとづき、松苧山鎮座までの経路・遺跡を綴り、山名や神徳の根拠を明らかにした説話である。
 これに対して神道的降臨説話が、慶長四年(1599)の記録という『由緒御神号書上帳』(松代市松代の神職宮沢正臣氏蔵)に書かれている。 景行天皇四十七年、日本武尊が東夷征討ののち、信州諏訪より軍を分け、越後に吉備武彦命を遣わされた。 命は筑摩川を下って魚沼郡獅子渡から解藁峠・松口村・松平村を経てこの清地に来り、天照皇大神・素盞嗚尊・天津彦根命・大国主命を崇め、夷狄を退せた。 そして平彦別命が五葉の松の種を山中に、青苧の種を麓の苧島その他の熟地に蒔き、四海姫命がその苧を紡いで機を織り、いまの縮布の元祖となった。 その後、吉備武彦命・平彦別命・四海彦命・四海姫命が当社に合祀され、先の四神とあわせて松苧山八社五十君神社と称して崇められたという。
[中略]
 なお、犬伏登山道の中腹に「中院」と称するところがあり、もと松苧大権現の本地仏馬頭観音を安置した観音堂があった。 惜しいことに昭和二十年の豪雪に倒壊し、取り払われていまは広場になっている。 本尊の馬頭観音像は松代町犬伏の庵寺に預けられているが、狛犬と同じく応永十年八月の作である。 中院は「尸羅場」とも称し、そこから上は女人禁制であった。