三囲神社 東京都墨田区向島2丁目 旧・村社
現在の祭神 宇迦之御魂命
本地 地蔵菩薩(延命地蔵)

「新編武蔵風土記稿」巻之二十二
(葛飾郡之三)

小梅村

三囲稲荷社

村の鎮守なり、 小梅代地町延命寺持、 古は田中稲荷と号す、
縁起に云、当社は昔弘法大師の勧請にて文和年中近江国三井寺の住侶源慶僧都再興す、 或書に文和元年壬辰の起立とあり其由緒を尋るに、源慶常に伝教大師の刻める延命地蔵を持念せしか、或夜夢想の感を得て東国に来り、 隅田川辺牛島を過林中に壊社あり、 偶老農に逢て尋ぬれは弘法大師の建る所なり、 大師当時に於て自ら稲荷の神体を彫刻せし時、洒水器のうちに忽然と梅一粒を感得す、 大師誓て云梅にもし瑞あらは有縁の地に生へ我を待へしとて虚空に投けるに、不思議や此島に生して此所を梅香原と云、 後に大師こゝに尋来て社を築きしに、時移りて一燈をかゝくる人もなし堂宇塊となり侍りと語り終りて去れは、 源慶泪を催し梅樹の下に立よりてかくなん 春はなを色まさりなん梅ヶ原、宮戸にひらく花の玉垣、 其夜奇異の告ありて翌日衆人を集て共に社壇を掘、一つの壺を得たり、 是を開くに神体老翁の姿にて白狐にうちのり右の手に宝珠を持、左の手に稲を荷へる像なり、 時に白狐現して神体を三たひ囲りて失たり、是より三囲と号す、 源慶すなはち草堂を作りて神体と地蔵とを仮に移し、時を得て社を造営し精舎を建立して延命寺と名つく、 其余薬師弁財天太子堂をも造立せり

谷口貢「江戸における稲荷信仰の展開 —三囲稲荷の縁起と狐信仰をめぐって—」

 三囲稲荷の縁起はいくつか伝えられているが、宝永七年(1710)の奥書がある「三圍稲荷大明神畧縁起」を中心に縁起の内容をみていくこととしたい。 縁起本文の内題は「武州豊嶋郡小梅村田中稲荷大明神略縁起」となっている。 この縁起は、伝存する縁起の中で最も古いものとみられ、内容も詳しいものとなっている。
 当社は往昔弘法大師(空海)が勧請した祭跡であり、文和年中(1352〜56)に近江国(滋賀県)三井寺の僧源慶が再興したと伝える。 源慶は日頃から伝教大師(最澄)が彫刻した延命地蔵尊を持念していた。 ある時、夢告で東国に汝を待つ人がいるとの示現があり、東国を訪れて牛島の地にやって来た。 そこで源慶は破壊した社らしきものを見つけ、その傍らに老木の梅があった。 そこに通りかかった白髪の老人に尋ねると、次のように答えた。
 弘法大師が東寺において稲荷大明神と出会った際、その尊形を写そうと誓願し、自ら御神体を彫刻した。 そして開眼供養のときに、洒水器の中に忽然と梅一粒を感得した。 大師が「梅に祥瑞あらば有縁の地に生えて我を待つべし」と言って虚空に投げると、東方に飛び去っていった。 この梅が牛島の地に落ち、一夜のうちに生えたという。 それ以来、この地を「梅香原」と言うようになった。 それからしばらくして弘法大師がこの地に来て社壇を築き、本社・拝殿を建てて稲荷鎮座の祭跡とした。 しかし時が移り変わり、この社を顧みる人も無くなり、堂宇は荒れはててしまったのだという。
[中略]
 老人の話を聴き終えた源慶は梅樹の下に立ち寄って、「春はなを色まさりなん梅香原、宮戸にひらく花の玉垣」という歌一首を詠じ、ここで一夜を過ごした。 すると夜中に社壇が鳴動し、夜が明けてから社壇の辺を拝すると、そこに一枚の短冊を見つけた。 短冊には「皈(帰)命田中大明神 本躰地蔵観世音 垂迹天女辰狐王 和光利物同一如」と記されてあった。
 源慶が歌を詠じているのは、荒れはてた社の神霊を鎮めるとともに、春に梅の花が咲くように社の繁栄をことほぐ意味合いがあるものといえる。 短冊は老人が置いていったものはどうかわからないが、夜中に社壇が鳴動したということは、神霊が何らかの意志を伝えているものとみられる。 短冊の「和光利物同一」とは和光同塵のことで、本地である仏・菩薩が衆生を救うために姿を変えて日本の神として現れたと説く本地垂迹のことである。 田中大明神の本地(本躰)が地蔵菩薩(縁起には地蔵観世音とある)、垂迹が天女辰狐王であるとされ、ここで源慶が信奉する延命地蔵と田中稲荷の狐神との結びつきが示されている。 「辰狐王」については、中世に成立した神道書『神道集』の「稲荷大明神事」において、稲荷大明神の垂迹は「陀枳尼明王」であり、名を別にして実を顕しているのは「辰狐王菩薩」であると説かれている。 つまり「辰狐王」と「陀枳尼」は同体であると説かれている。 陀枳尼は荼枳尼天(荼吉尼天・陀枳尼天)のことで、その尊像は女神の荼枳尼天が白狐に乗る形で表現されることが多い。 荼枳尼天は、人の死を六ヶ月前に知る能力を持ち、その人の死を待って心臓を食すとされる夜叉類であるが、密教に取り込まれて荼枳尼天を祀る所願成就の祈祷が行なわれ、稲荷神と習合したのである。 さらに三囲稲荷の本地を地蔵菩薩としているのは、稲荷三座の本地に千手観音・地蔵菩薩・如意輪観音を挙げている『神道集』等をふまえているものと思われる。
 このことを奇特に思った源慶は、村の道俗男女を集めて明神の示現を告げ知らせ、衆人とともに社壇を掘ると、そこに一つの壺が出てきた。 その壺を開けると御神体が入っており、老翁が白狐に乗り、右の手に宝珠を持ち左に稲を荷う姿のものであり、昨日物語をしてくれた老人の面影と少しも変わらないものであった。 源慶は御神体と地蔵尊を並べ、「諸佛救世者 往於大尽通 為悦衆生故 現無量神力」と唱えて礼讃した。 すると、そこに生身の白狐が出現して、御神体を三度めぐっていなくなった。 これによって、三囲稲荷大明神と呼ぶようになったという。
[中略]
 この後、源慶は本地垂迹の御利益を人々に説き聞かせ、この地に草堂を営んで御神体と地蔵尊を祀り、自らも止宿した。 やがて社の造営を企て、本社・拝殿・神楽堂・地蔵菩薩本地堂および精舎を建立した。 このときより延命地蔵菩薩の宝号にちなんで「延命寺」と名付けたという。 この外に薬師・弁天堂・太子堂等を造立した。
[中略]
 縁起の最後は、三囲稲荷および延命地蔵の御利益を説く内容である。 そもそも稲荷大明神は、悉地頓成の御誓願・日域(日本)守護の明神である。 あるときは天狐となって衆生をはぐくみ、地狐と現じて五穀を成就する。 十九種の願があって成就しないことはない。 ことに本地地蔵菩薩は。衆生有縁の薩埵にして七珍万宝能生の菩薩、二世の求願を果たして遂げたまうこと決定して疑いはない。 当社を信心渇仰する輩は、諸々の災難を遁れ、息災延命の守護を蒙るべきものである。