熊野出速雄神社 長野県長野市松代町豊栄 旧・村社
現在の祭神
熊野出速雄神社出速雄命・伊邪那岐尊・伊邪那美尊・速玉男命・予母都事解之男命
[配祀] 舒明天皇・古人大兄皇子
侍従神社侍従大神
[配祀] 大宜都比売大神
本地
熊野三社権現大日如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来
侍従大権現不動明王

「平成祭データ」

信濃國皆神山皆神神社参拝のしおり

熊野出速雄神社
皆神神社の御本社であり、奈良時代養老2年(718)出速雄神社を勧請と伝う。 以後修験道が盛んとなり、熊野権現を勧請し、大日如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の三仏像を安置し「熊野三社大権現」と称した。 北は戸隠、南は皆神山と修験道で長い間栄え、その先達和合院は朱印二百石、皆神山八合目から上全部を領し、聖護院(本山派山伏の本山)より川中島四郡(埴科・更科・水内・高井)の年行事職を命ぜられ、更にはほぼ信濃全域の本山派山伏の支配権を得ていた。 明治初期の神仏分離令、廃藩置県により山伏は全部還俗、一切を上知し和合院も廃するにいたり、社名を「熊野出速雄神社」と改称した。
現在の社殿は康応元年(1389)の再建であり、旧埴科郡中最古の建造物といわれ、平成6年(1994)県宝に指定されている。
出速雄命は諏訪大神の御子神で、当地方開拓の祖神として祀られ農耕の神なり。

侍従神社
信濃國佐久の内山城主内山美濃守満久の三男下野守三郎満顕は、十三歳の時鞍馬山に入山密教を厳修、その後各霊山を巡り修行し内山氏滅亡の際皆神山に登り、大日寺和合院宥賢と称し、後に侍従天狗坊と名乗った修験者であり、皆神山の修験を完成させた。
弘治2年(1556)7月14日、侍従坊入定の時「吾は是大聖不動明王の化現なり、吾を念ずれば即ち諸々願を叶え如意満足ならしめん、中にも火災剣難をば万里の雲外に踏み退け、安産子育寿命を延ぶべし」と三度呼ばわり給うといわれ、即ち在りし御影を木造に写して「侍従坊大天狗明王」として奉斎した。 正親町天皇永録、元亀の間(約四百十数年前)と伝う。 神仏分離令により「侍従大神」と改称した。
現在の社殿は天保14年(1843)に起工し弘化3年(1846)に再建された。

米山一政「信濃皆神山の修験」

 皆神山の修験がいつ始まったかについては、後に記すこととするが、近世を通じて本山派修験を尊奉し、聖護院直末として皆神山に君臨し、併せて川中島四郡の年行事職であった和合院の世系には、その祖を舒明天皇の第三皇子古人大兄皇子の子大輪王としている。
[中略]
 皆神山の北には『延喜式神名帳』所載の玉依比売命神社があって、ここの社家は小河原氏であるが、皆神山で修験が行ぜられるに至って、修験を行ずるものが出るに至った。 皆神山には現在木像三躯が残存してるが、その一躯は五智宝冠を戴いて智拳印を結ぶ大日如来坐像で、一躯は定印の阿弥陀如来坐像で、他は弥勒菩薩坐像である。 大日如来の膝裏には、
開眼法印良覚、民部大夫家吉、同下野守、仏師伊与法眼、弥勒二年(丁卯)二月二十八日
と本願主以下年紀を墨書してあって、各像の台座の天板裏面には夫々次のような墨書銘がある。
信洲(州)埴科郡英田庄東条 群神山大日寺弥勒院 御本地大日如来座□(少カ)造立依当郷内安隠(穏)諸人福寿 当山盤(繁)昌家内殊成就 眷属安全諸求円満息災延命皆令満足故祝家吉歳七十二歳
同下野守三十七歳(敬白) 弥勒二年(丁卯)三月吉日
             施主等家吉
信洲(州)埴科郡英田庄東条 群神山大日寺弥勒院 御身躰阿弥(陀脱)如来座少造立 右之趣者当所安隠(穏)諸□□□(人福寿カ) 当山盤(繁)昌災延命所求成 就一一円満皆令満足故
施主祝家吉生年七十二歳其子下野守三十七(七脱)
  弥勒仁年(丁卯)三月吉日(敬白)
信洲(州)埴科郡英田庄 東条群神山大日寺 弥勒院御身躰座 右当所安隠(穏)万民快楽 当山盤(繁)昌家内安全所
求成就皆満足施主祝
家吉生年七十二歳少造□(立カ)
  弥勒二天(丁卯)弥生吉日(敬白)
これら記載の弥勒年号は仏家の用いた異年号で、甲斐妙法寺記は永正四年丁卯を以って弥勒二年に充ているから、この三像は永正四年の造立であることが明らかである。
 同山は三峯から成り、東の峯・中の峯・西の峯があることは先に記したが、中の峯が中心で、ここには熊野権現社が存在する。 いわゆる権現造で、江戸時代屡修理があって、創建当初の面影は可成変革されているが、大虹梁や内外陣及び円柱などから、建立は室町時代後期に遡らせることができるから、あるいはこの三像と同時期の建立であろうかと考えられる。 とにかくこの頃、熊野三社権現に倣って修験者によって、山上は整えられていったことが推測される。 左記本地仏以下の銘記に見える願主民部大夫は玉依比売命神社の祠官小河原氏であることは祝家吉と記していることでも明らかで、下野守は家吉の子である。 この家吉はまた供秀ともいい、その弟は大日寺養玄といい、文明六年修験者となった。
 皆神山修験をさらに推進したのは、先に挙げた造像銘記に見えた下野守である。 俗名は詳らかでないが、長じて修験に転じ、大日寺和合院と称し号を宥賢と改め、また百体と称し侍従坊を号した。 後に至って正徳年間侍従天狗坊と諡され、これを祀る社殿が建立されて侍従大権現社と称され、現在はこの社が皆神山の主体になっている。 皆神山修験の完成はこの宥賢とすることができる。