皆神神社 長野県長野市松代町豊栄 旧・村社
現在の祭神
熊野出速雄神社出速雄命・伊邪那岐尊・伊邪那美尊・速玉男命・予母都事解之男命
[配祀] 舒明天皇・古人大兄皇子
摂社・侍従神社侍従大神(大日寺和合院宥賢)
[配祀] 大宜都比売大神
本地
熊野三社権現大日如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来
侍従大権現不動明王

「つちくれかゝみ」四の巻

群神山[LINK]

群神山 離れたる山也、南の方ハ平林村也、公義向平林を用、
 東の麓ハ桑根井・牧内の両村につゝけり、西北ハ東条村の地つゝきなり、権現の像の台坐に信州埴科郡菱田庄東条郷群神山と有之由、
 西の峯仏国山曼荼羅院慈寿寺〈又慈楽寺共云〉、本尊阿弥陀韋駄天、
 中の嶺ハ群神山弥勒院大日寺〈或和合院共〉、本尊大日并諸神諸仏、
 東の峯飯縄山不動院大聖寺、本尊弥勒菩薩、現在ハ和合院〈本山派〉、
[中略]
侍従坊大天狗の遺像も東の峯に御座有し、今ハ惣して中央一社許也、山号も書安きに付て、皆神山と今ハ書也、
侍従坊大天狗 皆神山権現の社の内に有御坐けるか、宝永三の年、社宮殿共に修復ありて、九月十五日遷宮也、
此侍従坊ハ不動明王の応化なりといふ霊証有にや、遷宮の砌りの卒塔婆の上にかんまん、左の種字を置て侍従坊法印大天狗明王と有り、
[中略]
 群神山大日寺弥勒院之縁起
抑々言群皆山三社大権現者、人皇三十五代舒明天皇々甥古人皇子之開基也、 奉其由来於具尋、人皇三十七代孝徳帝詔譲位於古人皇子、々々悟三世不可得之深理、有遁浮世之心根、賢辞不受、竟入芳野山而薙染乎、 于茲大市皇怨朝入芳野山、讒口依古人皇子与大市皇謀而、奏于企反逆楯籠吉野山、阿部倉梯・蘇我石川議而、大化元年三月遺官兵於芳野令討之、大市皇勢尽而自伏剣、古人皇子称同死出奔赴信濃、欲入此山于蔵身乎、 其頃信州者充満年歴鬼畜于国中、恣領郷里山谷川沼乎、 皇子欲求勝区、臨山頂密巡見四方四隅、東西之嶺者畳上大石、立並枯木、栖家悪鬼旧獣、於是者湿気常潤木梢、細雨鎮洒青苔、又有三火坑、猛火巻焱燼、聳雲天、宛如焦熱鑊湯也、下火坑於十計西方有狭湖、深淵無量不測也、有其中于小島、菅菖蒲生茂無間、而立炎々橋木於二株、々々側双輝於日月二光、而又時々焔火燃出而醒臭気難堪、所謂出毒蛇紅連底於積悪業頭也、 是時皇子殿発無比悲願、祈誓天神地祇、通達真空至誠丹心十都率内界、降臨成法界智之大日覚王、如来中央来現妙観察智阿弥陀如来於西方、影嚮為等覚無垢薩埵、待下生三会之暁、弥勒於東方、則顕現三社権現者、所三仏智、於出生之四如来八菩薩、現十二所之末社、便降伏悪鬼毒蛇、於鎮護国家万民、依此因縁号山於群皆山、名寺於弥勒院大日寺、又謂霞峯於飯縄山不動院大聖寺、称霧嶺於曼荼羅院慈寿寺仏国山、 亦大宝年中役小角為一切衆生済度、迄日域遠国波濤踏分、絶人迹於山路之時到于此山、奉見于三社権現矣、
[中略]
 群神山侍従坊大天狗の御縁起
爰に当山侍従坊大天狗と申奉るハ、天津児屋根の御苗裔大織冠鎌足公二十四代の後胤中務少輔藤原の朝顕の男修理亮満朝の四男信濃国佐久・小県両郡の押領吏二橋美濃守満久の三男也、
[中略]
さて満久ハ仏法を信し神道を崇め、有為転変の理を悟り、我武道家に生れ、三尺の霜を横たへ、やなくひ矢を早くつかはむ事をのみおもひて、いまた生死出離の種をうへす、 詮する処、我子の内に三郎ハ其風情豪傑にして、然も頓智敏恵なり、学文に倦屈有まゝ出家になして、我冥途晴路の燈火をも烑させはやとて、則鞍馬寺に登せらる、 藤三郎生年十三歳、其貌麗艶瑞厳にして、利根絶倫也、 往古霊亀の峯延法師、延暦の鑑真和尚再来して、我山の繁栄を期し給ふかと、一山の衆徒掌を撃て悦へり、志学の中の春縁の髪をおろし、霞の衣を染て侍従の君といへり、
[中略]
万坐の密法修行の大願を発し、五畿七道山々獄々行ひめくり給ふに、鬼魅・魍魎・悪龍・毒蛇・猛獣・諸畜順ひかしつかすといふ事なし、 信州に至て駒ヶ嶽・御嶽・栗生・布引・浅間ヵ獄・あつまや嶽行ひ済し、此群皆山に止りて、万坐の修法結願成就し給ひハ、近里遠郷の道俗男女昼夜参詣恭敬して、鷲峯の説法の会坐もかくこそハとそ見へし、 然ふして侍従坊ハ不動院の内陣に閉籠り、虚空蔵求聞持の秘法を修せられけるか、いかに前世の習因にや有けん、道場を駈出し、四維上下三千七千世界の其内に唯我独尊と大驕慢を発し訇り、面色変り、双眼ハ日月の如く輝き、左右に金ねの翅を生し、虚空に飛上す、 群集の貴賎驚き騒ぐ処に、雲中に大音声有て、いかにやものとも、参詣の老若慥に聞け、我ハ是大聖不動明王の化現、汝等衆生不知や、信濃国ハ日本開闢の往古より六天の魔王数輩の眷属共を遣し、山々嶽々に住せしめ、仏法王法を妨げんと歎す、去に依て諸神諸仏国中に天降り、大慈大悲の徳をあらハし、神変窈冥の威力を以魔宮を破尽し、万民を守り給ふといへとも、邪魔悪鬼隨縁障礙魔ハ退去する事なし、故に本師大毘盧遮那の仏勅を蒙り、此群神山に跡をとめ、諸の障碍を踏退け、万民を安泰ならしむへしと誓ふ、 大聖の化用ハ不思議なり、久遠正覚の都を出て、生死浮沈の魔道に入、これそ信をかくし狂を顕ハせといふ正観の内証に叶へり、心疑ふ事なかれ、日に三度夜に三度国中をめくり、汝等衆生を守るへし、もし疑をなすものあらハ、無量の眷属を放ち遣し、悪病奇病をあたへ、一命を奪ふへし、信心有て我を念する輩をハ諸の願ひを叶へ、意満足ならしめん、中にも火災剣難をハ万里の雲外に踏しりそけんと三度呼ハり給ふ時、大地夥敷震動して、雨風頻りにすさましく一とをりして後、空晴風も静りぬ、 見聞の道俗男女奇異の思ひをなして、則在し御形を木像を写し奉り、侍従大天狗明王とあかめ奉る、夫より以降利罰厳重にして国中を守らせ給ふ也

米山一政「信濃皆神山の修験」

 皆神山の修験がいつ始まったかについては、後に記すこととするが、近世を通じて本山派修験を尊奉し、聖護院直末として皆神山に君臨し、併せて川中島四郡の年行事職であった和合院の世系には、その祖を舒明天皇の第三皇子古人大兄皇子の子大輪王としている。
[中略]
 皆神山の北には『延喜式神名帳』所載の玉依比売命神社があって、ここの社家は小河原氏であるが、皆神山で修験が行ぜられるに至って、修験を行ずるものが出るに至った。 皆神山には現在木像三躯が残存してるが、その一躯は五智宝冠を戴いて智拳印を結ぶ大日如来坐像で、一躯は定印の阿弥陀如来坐像で、他は弥勒菩薩坐像である。 大日如来の膝裏には、
開眼法印良覚、民部大夫家吉、同下野守、仏師伊与法眼、弥勒二年(丁卯)二月二十八日
と本願主以下年紀を墨書してあって、各像の台座の天板裏面には夫々次のような墨書銘がある。
信洲(州)埴科郡英田庄東条 群神山大日寺弥勒院 御本地大日如来座□(少カ)造立依当郷内安隠(穏)諸人福寿 当山盤(繁)昌家内殊成就 眷属安全諸求円満息災延命皆令満足故祝家吉歳七十二歳
同下野守三十七歳(敬白) 弥勒二年(丁卯)三月吉日
             施主等家吉
信洲(州)埴科郡英田庄東条 群神山大日寺弥勒院 御身躰阿弥(陀脱)如来座少造立 右之趣者当所安隠(穏)諸□□□(人福寿カ) 当山盤(繁)昌災延命所求成 就一一円満皆令満足故
施主祝家吉生年七十二歳其子下野守三十七(七脱)
  弥勒仁年(丁卯)三月吉日(敬白)
信洲(州)埴科郡英田庄 東条群神山大日寺 弥勒院御身躰座 右当所安隠(穏)万民快楽 当山盤(繁)昌家内安全所
求成就皆満足施主祝
家吉生年七十二歳少造□(立カ)
  弥勒二天(丁卯)弥生吉日(敬白)
これら記載の弥勒年号は仏家の用いた異年号で、甲斐妙法寺記は永正四年丁卯を以って弥勒二年に充ているから、この三像は永正四年の造立であることが明らかである。
 同山は三峯から成り、東の峯・中の峯・西の峯があることは先に記したが、中の峯が中心で、ここには熊野権現社が存在する。 いわゆる権現造で、江戸時代屡修理があって、創建当初の面影は可成変革されているが、大虹梁や内外陣及び円柱などから、建立は室町時代後期に遡らせることができるから、あるいはこの三像と同時期の建立であろうかと考えられる。 とにかくこの頃、熊野三社権現に倣って修験者によって、山上は整えられていったことが推測される。 左記本地仏以下の銘記に見える願主民部大夫は玉依比売命神社の祠官小河原氏であることは祝家吉と記していることでも明らかで、下野守は家吉の子である。 この家吉はまた供秀ともいい、その弟は大日寺養玄といい、文明六年修験者となった。
 皆神山修験をさらに推進したのは、先に挙げた造像銘記に見えた下野守である。 俗名は詳らかでないが、長じて修験に転じ、大日寺和合院と称し号を宥賢と改め、また百体と称し侍従坊を号した。 後に至って正徳年間侍従天狗坊と諡され、これを祀る社殿が建立されて侍従大権現社と称され、現在はこの社が皆神山の主体になっている。 皆神山修験の完成はこの宥賢とすることができる。

「平成祭データ」

信濃国皆神山皆神神社参拝のしおり

熊野出速雄神社
皆神神社の御本社であり、奈良時代養老2年(718)出速雄神社を勧請と伝う。 以後修験道が盛んとなり、熊野権現を勧請し、大日如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の三仏像を安置し「熊野三社大権現」と称した。 北は戸隠、南は皆神山と修験道で長い間栄え、その先達和合院は朱印二百石、皆神山八合目から上全部を領し、聖護院(本山派山伏の本山)より川中島四郡(埴科・更科・水内・高井)の年行事職を命ぜられ、更にはほぼ信濃全域の本山派山伏の支配権を得ていた。 明治初期の神仏分離令、廃藩置県により山伏は全部還俗、一切を上知し和合院も廃するにいたり、社名を「熊野出速雄神社」と改称した。
現在の社殿は康応元年(1389)の再建であり、旧埴科郡中最古の建造物といわれ、平成6年(1994)県宝に指定されている。
出速雄命は諏訪大神の御子神で、当地方開拓の祖神として祀られ農耕の神なり。

侍従神社
信濃国佐久の内山城主内山美濃守満久の三男下野守三郎満顕は、十三歳の時鞍馬山に入山密教を厳修、その後各霊山を巡り修行し内山氏滅亡の際皆神山に登り、大日寺和合院宥賢と称し、後に侍従天狗坊と名乗った修験者であり、皆神山の修験を完成させた。
弘治2年(1556)7月14日、侍従坊入定の時「吾は是大聖不動明王の化現なり、吾を念ずれば即ち諸々願を叶え如意満足ならしめん、中にも火災剣難をば万里の雲外に踏み退け、安産子育寿命を延ぶべし」と三度呼ばわり給うといわれ、即ち在りし御影を木造に写して「侍従坊大天狗明王」として奉斎した。 正親町天皇永録、元亀の間(約四百十数年前)と伝う。 神仏分離令により「侍従大神」と改称した。
現在の社殿は天保14年(1843)に起工し弘化3年(1846)に再建された。