「三国名勝図会」巻之三
坂本村にあり。
祭神二坐、其一坐は建御名方命、是を上社と称し、一坐は事代主命、是を下社と称し奉り(神体各鏡)、櫝を殊にす。
上社を左位に崇め、下社を右位に崇め、左右これを合殿に安す。
例祭毎年五月五日、是を五月祭と云。
七月二十八日、此日大祭也。
当社は鹿児島の総廟にして、鹿児島五社の第一也(外四社を祇園神社、稲荷神社、春日神社、若宮神社とす)。
信濃国諏方大明神を迎へて勧請す。
今其来由を繹るに、文治二年(丙午)正月八日、鎌倉右大将源公、我大祖得仏公を、信濃国塩田荘地頭職に補せられ、斯年、又島津御荘薩摩大隅日向三国の総地頭職に補任せらる。
五年己酉、右大将源公、陸奥ノ国押領使泰衡を征伐し給ひし時、得仏公御年十一歳、命を蒙りて副将軍となり、前軍に都督たり。
此時深く信濃国諏方大明神に斎祷し給ひて軍利あり、功成りて凱旋し給ひけり。
承久三年、辛巳、五月八日、公又信濃国太田庄地頭職に補せられ給ふ。
是より道鑑公に至り伝領し給ひ、公遥に神恩を仰ぎ、祖徳を追ひ、信濃の本社諏方の神霊を、薩摩国山門院に勧請し、尊んて総社となし給へり。
其後暦応四年、辛巳、四月、肝属兼重、中村秀純が據れる鹿児島東福寺城を抜き、康永二年、壬午、十一月、矢上高純が催馬楽城を陥れ、鹿児島の地を御子齢岳公に与へ給ふ。
是に於て齢岳公山門院木牟礼城より茲に遷坐し、永く本府の総廟と敬重し、神領若干を附せらる。
今当社に、正平十一年、丙申、十二月十八日、公田地を寄進し給へる書を蔵む。
正平は南朝の年号にて、其十一年は、北朝の延文元年に当る。
此年の遷坐ならんと云。
山田聖栄自記に、義天公は、鹿児島に生れ給ふゆゑ、特に当廟を崇敬し給ふと見え、都城蒲生某蔵旧記に、是より先一社なりしを、義天公の時、上下二社に奉祀ありしを記す。
さて其七月二十八日の祭事は、神事奉行頭奉行等の職掌多し。
信濃諏方御佐山神事の式とて、尾花ふき、穂屋の廻りの、一村に、しばし里ある、秋の御佐山と作る歌の如く、当国に於ても、新たに茅茨を搆へ、頭屋と云ひ、児童二人を簡み、頭殿と号し、左右に冊き尊む。
是勅使奉幣の式にて、頭殿とは蔵人頭の義なりとぞ。
永享十年の祭礼法様記に詳なり。
其頭殿、先六月朔日より別火斎居し、七月朔日に及び、修祓し、頭屋に上る。
其これに在るの間、凡百の儀式、或は本府諸村及ひ谷山桜島の農夫、代る代る鉦鼓踊りをなし、又市躍散楽等を興行し、人皆興を催す。
既にして七月二十八日に至り、左右の頭殿此廟に詣ふて、奉幣祭祀の盛礼を行はれ、世々の邦君詣謁し給ふ。
元禄九年、丙子、六月、神祇道管領勾当長上従三位行ト部兼連、啓状を以て当社に神位を晋め、正一位とし、十三年、庚辰、四月、近衛右大臣家熈、諏方大明神五字の扁額を書して、当社の両華表に掲らる。
されば大祖公の御時より、かくゆゑある明神にて奕世厚く敬礼し給ひ、数多の神領を附らる。
又浄国公の時、宝殿、舞殿、拝殿、本地堂、籠所の類、悉く儼飾を尽され、誠に人の敬によつて神亦益々運を添ふが如し。
大宮司職、正五位本田出羽守親徳なり。
社人三十家、これに副ふて祀事を助く。
安養院別当たり。
本地堂は別当寺にあり。即ち寺の本尊なり。
巻之四
坂本村、諏方道にあり。
本府真言宗大乗院の末にて、本府五社の一、諏方神社の別当なり。
本尊愛染明王(坐像)、即ち諏方神の本地にて、所安の堂を本地堂と唱ふ。