御崎神社 鹿児島県肝属郡南大隅町佐多馬籠 旧・郷社
現在の祭神 底津少童命・中津少童命・表津少童命
本地 六観音

「三国名勝図会」巻之四十六

御崎山 并 御崎三所権現社[LINK]

山崎村にあり。 此地土俗に佐多の御崎と唱ふ。 当邑の地たる、其総形南海に突出したる所なるに、又此御崎は其地の尖觜、東南の海中に突出すること三里許、日本筑紫連壌の内、極南の地とす。 其尖觜の端は、懸崖絶壁、数十丈直立して、甚高峻なり。 急浪怒濤岩礁に相撃て、其勢勇壮なり。 山上は石巌堆積して、其間悉く鉄蕉樹叢生す。 故に土俗蘇鉄山とも呼ぶ。 又松樹蒲葵樹雑生せり。
山の半腹に神社あり。 御崎三所権現といふ。 社殿南に向ふ。 祭神三座、底津少童命、中津少童命、上津少童命、是なり。 一説に、六所権現と称じて、祭神六座とす。 六座の祭神は、下條近津宮と同し(社内に鏡あり。鏡面六観音の種子梵字を標す。寛陽公、大玄公、息災増福を祷るの文も銘す。延宝五年、極楽寺住持秀遍所記なり)。 年中に、祭祀三度、正月二十日、二月十八日、九月十九日なり。 其賽会には、内祭祓、一番舞、神師楽、内侍舞等の式あり。 正月十九日には、浜殿下りの祭式あり。 本社より神輿を舁き、当邑海辺の田尻浦、大泊浜、外の浦、間泊浦、竹之浦等に神輿を駐めて祭をなし、近津宮の下に神輿を安し置て、翌二十日、近津宮の庭におひて、打植祭あり。 二十一日、送神せり。 此祭式路次の行粧、洞官楽を奏じ、鉾絹傘など振立て、荘厳なる事なり。 老弱男女おびたゝしく聚観すといふ。
社記に云、当社は和銅元年庚戌三月三日の夜、神より霊訓あり。 同年六月、神社を創建し、御崎六所権現と崇むと。 往古は、今の火尾権現鎮座の地にありしに、慶長年中、樺山権左衛門久高、君命を奉し大将となり、琉球を征しける時、誓願の旨趣ありて、帰朝の後、官に啓し、今の地に神祠を遷して再建せり。 社殿南に向へるは、琉球国鎮護の祈願を以てなりとぞ。
この社山、廻り一里余の間は、悉く鉄蕉叢生す。 此鉄蕉は、樺山久高琉球より取来て、始め華表の左右に栽置しに、年々繁殖して、今は満山数万株となれり。 其大なる者は、老松の如し。 神其鉄蕉を愛惜するとて、他に移し栽ることを禁ず。 若其禁を破りて取る時は、祟りをなすといへり。
社山の北は、岡阜相続き、陸路参詣の路あり。 西南は大洋を受け、懸崖絶壁相連りて近づくべからず。 東の方は崖岸稍少して、嶽石の間に少し沙渚あり。 其嶽間に船の着場あり。 船より参詣するものは、爰に繋きて登る。 鉄蕉蒲葵繁れる路を、一町余登れば、華表ありて、南に向ふ。 又石階五歩許を登れば、即ち本社なり。 其社山の嶺に登て望めば、千里渺々たる大洋なり。 戊亥の方に当り、開聞岳海を隔て雲中に聳へ、東南の海上には種子益救の島山波際に浮ぶ。 風景絶勝にして、筆に写しがたし。 此神社に参詣したる者は、往古よりの習なりとて、御崎柴といへる樹枝を折得て帰ることなりとぞ。 土俗護符になると云へり。 御崎柴は山中に甚た多し。 当邑の総鎮守にて、社司山名某、別当極楽寺。
[中略]
○本地堂 本社華表の左り三間許にあり。 六観音を安置す。
○浜乃宮 本社の卯方、二町半にあり。 海浜の嶽窟に小社あり。 中瀬の神を勧請せり。
○火尾権現祠 本社の巳午方、二町余、海岸の上にあり。 石小祠なり(神体石)。 上瀬の神を勧請せり。 火尾或は炎に作る。
[中略]
○降臨石 火尾祠より午の方、三町許にあり。 おふごの瀬ともいふ。 海中の石磯なり。 御崎権現誕生し給ふ所なりといへり。
○影向石 辺津加村、大泊浦、野岡の絶頂にあり。 御崎社より丑寅方、一里余に丁る。 土俗がうごいしと称ず。 石高九尺、囲三丈余。 社記に、上古伊弉諾尊此石上に降臨し、祓除し玉ふへき佳処を臨観せし故、影向石と称す。 又御崎の海中に、上津瀬、中津瀬、下津瀬とて、三つの湍灘あり。 常には海水浸し隠して見えす。 此御崎は、南海に突出すること数里なる、皇国の南極にして、所謂伊弉諾尊、海潮の上中下に就て、三の少童命を生ませ玉ふといふは、此所なるべし。
○上瀬中瀬下瀬 影向石の條下に見ゆ。
○御崎権現近津宮 郡村にあり。 祭神六座、底津少童命、中津少童命、上津少童命、底筒男命、中筒男命、底筒男命、是なり。 御崎権現社は遠き故、此地に勧請して、近津宮とす。 勧請の年月詳ならず。 祭祀正月元日、同月二十日、二月初卯日、五月五日、九月九日、十一月初卯日なり。 御崎社の神事、二月、九月両度は、本社にて行ふといへども、正月二十日の神事は、当社にてなせり。 前日御崎権現神輿を此宮に舁来て、祭式を修すること、前文御崎社の段に述るが如し。