現在の祭神 |
大物主神 [配祀] 三穂津姫命・少彦名神 |
「新編武蔵風土記稿」巻之二百四十七
(秩父郡之二)
高山村
三輪明神社
此村の惣鎮守にして、所祭大己貴命、
神体木の立像長二尺五寸許、出現して手刻したまひし像なりと云伝ふ、
当社は斉明天皇丙辰の年に、大和国大三輪より勧請すと云、仍て大和山と号す、
本地弥陀木の立像長二尺六寸許、
社東に御手洗の清水あり、
前に弁ず
「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」
三輪神社
飯能市高山156(高山字東下)
歴史
大化の改新により新体制が打ち立てられた後、中臣鎌足の第二子長覚坊上人・岩田三兄弟らが東国に遣わされ、東国の平定、鎮護のため白雉五年(654)当所に堂宇を建立し不動尊を安置し、別当として常楽院を置いた。
また、同年に高山不動の祀堂として岩田三郎により池ノ端寺、岩田二郎により樋ノ下寺、岩田宿禰により椙本寺がそれぞれ建立された。
更に、常楽院は第三十七代斉明天皇により勅願寺として長覚寺の寺号と三万六千坪の土地を賜り、以後不動尊を中心に発展を遂げて、保安年間(1120-24)には醍醐寺三宝院の直末となり両部神道の大道場として、一山五流三十六坊は関東一円から信仰を集めた。
当社の創建は不動尊を祀った二年後の斉明二年に行なわれた。
毛利家所蔵『高山案内記(安政二年)』に載るその由緒を次に記す。
当山開闢大和山三輪神社人皇三拾七代斉明天皇二丙辰年岩田大人大和国三輪山を此地に別社し給ふ
是万星を主り五穀草木万民豊楽武術医薬法等に至る迄諸人の運星を主る事是救苦天尊同体にましませはなり
今に於山内の師官神前において月次尊星供修行須正月十五日五穀会修行二月十五日天下安静の行六月名残りの祭九月三九日祭礼十月亥の子祭甲子祭
是水徳月神の垂迹四神相遊の地なり
三輪神社神体木立像出現御自作御長弐尺六寸
御本地阿弥陀如来木立像御長弐尺六寸
更に往時別当を務めた宝勝院について、記している。
社僧宝勝院 岩田の大人日々神供を献ずるの処
天平宝字の頃大和国より宝勝坊白蛇を連来り此所に住神役務後宝勝院と号し暦を経て右の白蛇今も迷々多り
以上から当社は東国の平定、鎮護のためにこの地に不動尊を祀り、これを中心として民衆への教化が行なわれる中で、岩田某が民衆救済の目的から大和国大神神社の分霊をこの地に勧請したのに始まり、本地仏を阿弥陀如来、垂迹神を大物主神として、その後、社僧として大和国から来た宝勝院は祭祀をつかさどるようになったものである。