室根神社 岩手県一関市室根町折壁 旧・県社
現在の祭神
本宮伊弉冊命
新宮速玉男命・事解男命
本地
本宮十一面観音
新宮聖観音
瀧ノ宮如意輪観音

「奥羽観蹟聞老志」

室根権現

下折壁駅の北山に在り。 高二千丈、折壁大原奥玉三邑に跨る、これを室嶺山と曰ふ。 室嶺山満徳寺と号す。 山上に神祠有り。 元正帝の養老二年九月十九日鎮守将軍従三位兵部卿大野朝臣東人の建る所なり。 今十一面観音の像を置く、山上に慈覚か護摩堂の趾有り、これを呼ぶに権現を以てす、今言権現明神者蓋多正之神也。

「室根山由来記」[LINK]

牟婁峯山本宮由緒

陸奥国磐井郡上折壁本郷之内鬼首山と申すは日本武尊草創由なり 此郷は尊の行在所ありし所猶皇化に服せす常に夷狄集りて良民を悩す故に人皇四十四代の聖主元正天皇の養老二年三月詔して兵部卿勲四等大野朝臣東人を東山東海之按察使鎮守府将軍に拝して東降し宮城多賀城に居らしめ奥羽の民を治む 然れとも東夷強暴にして容易く服せす 神明の霊威を示すにあらすんは醜類暴行を止むへからさるを知り熊野神を移斎す 熊野は威霊天下第一なり 天皇紀ノ国ノ造藤原押勝等に勅して熊野大権現之原廟を東奥の地に建し夷狄退散天下泰平を祈り玉ふ 是に於て奉勅紀ノ国ノ造参議仁部省卿藤原押勝賜副使紀ノ名草藤代県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義・湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴等紀伊の牟婁郡音無川上の熊野神廟に詣して即ち勅旨を白して御神霊を奉守し数百人供奉して養老二戊午年四月十九日音無川を越し玉ふ 蓋し川上の熊野三尊即ち弥陀・薬師・観世音光明を放ち玉ふと云ふ 湯浅権太夫玄晴は十一面の秘本尊を背負て船に乗り夫より流のまにまに湯浅の湊に至り大海に出て給ふ 夫より南海の浪路を凌きて九月九日陸奥国本吉の細浦に着岸し仮宮を唐桑森に建て神を奉置し玉ふ 此時将軍大野朝臣東人白馬十七騎諸県主を召て奉迎し玉ふ 勅書を将軍に渡し玉ふて後仮宮供奉公卿の泊所を営み置き神主に命して潮を以て供物を清め釜を据へ湯の花を捧け何れの所に勧請せんと神慮を窺ひ奉りけるに神勅あり 磐井鬼首山は往古日本武尊切開皇業始めて行はせし地なれば此峯に鎮座して天下長久を祈り人民を利益せん
[中略]
夫より神勅に随て鬼首山を八方に踏分け此山峯の八合目に御社地を卜し御宮御造営有りしは養老二戊午年九月十九日の事なりき 此時鬼首山を更めて牟婁峯山と称し玉ふ 後世室根山と云ふ 蓋し紀ノ国牟婁より御廟を遷し奉りし故なり 熊野大権現を此時より牟婁峰山大権現と申し奉ると云ふ

室根山新宮之由緒

人皇九十四代の聖主花園院天皇天下の武将は征夷大将軍守邦親王執権は北條相模守平朝臣基時公此時奥州一方之大将葛西伯耆守平朝臣信重公なり 神祇を崇敬し人民を撫育し給ふ良守にして前文応年中大樹公より命に依て室根台嶽社舎寺宇も茫々乎焼土となり祭るへき御社は本宮となり元正天王勅願の神社慈覚大師造立の台塲を破廃し其儘に置事朝廷に恐れ有り 当霊塲勅願所の原由を府都に奏聞して当社を再興せんことを願ふ 将軍則ち許容し賜うふて再興料として金弐百五拾両を降し賜ふ 此時本宮の御堂を御造営ありし 抑当社は熊野三所の原廟の勅願の社なるに本宮のみにして新宮の御社なくんばとて王原新山に鎮座奉る正観音を移し奉り是則ち紀伊熊野新宮大権現なり 御祭神は速玉男命なり 此時より始めて室根山新宮大権現と仰き奉りしなり 平信重公令して東山大原城主千葉式部太夫平信親上折壁の郷士浮船大和守等を造営の奉行とす 正和二癸午年九月十九日の勧請なり
[中略]
抑陸奥国磐井郡上折壁本郷の内室根山本宮・新宮・瀧ノ宮の本尊は是則ち紀伊熊野三所を遷し瀧は那智山を勧請其祭神は事解男乃命本地は如意輪の観世音なり 世に伝ふ熊野大権現は阿弥陀・薬師・観音の三尊本地秘仏にして見ることを許さずと云ふ 牟婁峯山は熊野観世音の原廟なり 然るに本尊の秘仏を御沢瀧の窟に秘蔵せりと云ふ
[中略]
蓋し室根新宮本地正観音木像は春日の作なり
[中略]
室根山は紀伊熊野の本宮・新宮・那智三所と同神にて牟婁峯本宮は伊弉諾尊室根新宮は速玉男乃命瀧ノ宮は泉津事解男乃命にて三所三神此時の神を祭所在也