武蔵御嶽神社 東京都青梅市御岳山 式内論社(武蔵国多摩郡 大麻止乃豆乃天神社)
旧・府社
現在の祭神 櫛真智命・大己貴命・少彦名命
[配祀] 広国押武金日命(安閑天皇)
本地 釈迦如来

「新編武蔵風土記稿」巻之百十四
(多磨郡之二十六)

御嶽村

御嶽社

中央の山上にあり、 東面にて八尺四方の檜皮葺なり、 四面に瑞籬あり、周匝二十四間、
[中略]
元和八年に記せし社伝を閲るに、 人皇十二代景行天皇四十年に、日本武尊東夷征伐のため御下向ありしとき、 相模国より渡海せられ陸奥を平げ給ひ、 それより常陸をしづめ甲斐の国に至り、 猶信越の諸国を王化に帰しめ給はんと、 上州より当国に来り給ひて、 この御嶽山に陣営をすべられ、 服するを睦ひ、背けるを誅し給ひて、 東南の国々みな平均せしかば、 ふたゝびこの陣営にかへり給ひ、 猶西北を志し給ひて山路の嶮岨を越、 今の奥ノ院高良山武内大臣山の辺をすぎ給ひしに、 深山の邪神大なる白鹿と化して、道路をふさぎける、 尊太占を以山鬼なることをしり給ひ、 山蒜をとりて大鹿の面に弾き給ひしかば、 あやまたず眼にあたりて斃れけるとき、 山谷鳴動して雲霧四方に起り、 群臣路に迷ひしとき忽然として白狼あらはれ、 前駆して西北に導きまいらせけり、 尊狼に告給ひてこれより本陣にかへり、火災盗難を守護すべしとありければ、 獣ながらかしこまりし顔色あらはれて、御嶽山に向ひて去りしとなり、 これ当山火難盗難退除の守護神たることのよしなり、 さて尊は事成らきて再びこの山にかへり給ひ、 御身につけ給ひし御鎧をとかせられ、永く岩倉に納め給ふ、 これ当国に名を得しことのよしなり、 又の給ひしは此国千歳の後、万代不易の治世あるべしと、 これ当山を国の鎮護と仰ぐ基なり、 後七百歳の星霜をへて人皇四十五代、聖武天皇の御宇天平八年社稷安全の為に、行基菩薩命を奉じて東国に下向し、 この嶽は往昔日本武尊の陣営の古迹にして、東国治平の源なればこの地を卜して堂舎を立、 御長一搩手半(今の三尺に准す)の蔵王権現の像を彫り、是を鎔かして金銅の像を治鋳して安置せり、 抑この勅願の叡慮は、東国の愚民等やゝもすれば闘諍をなし、 しかのみならず、去年病災に罹りて諸民困苦することを憂ひ給ひて事おこれりとぞ、 その後再び勅命下りて黄金を以鋳さしめ給ふ、是当今安置する所の神像なり、 こゝに於て宮殿坊舎甍を並べて当国の霊場たりしが、 建久二年の秋秩父庄司重忠奥州の軍に先鋒たるの功により、 将軍家より此柚郡を賜はり、御嶽山に城を築きて住居せしが、 元文二年乙丑重忠二俣川にして戦死せし時、兵火の為に宮殿以下ことごとく灰燼となれり、 その後文暦元年前摂政道家卿祈念のことありて、 四條帝へ奏聞して神社仏閣ことごとく故に復し、散位大中臣国兼を祭祀の司職と定めらる時に、 鎌倉将軍頼経より、神領として永銭三十六貫文の地を寄附せらる、 由て司職国兼本迹縁起の神道を極め、仏道の制を換て神社の式に改め、 行基が作りし蔵王の像を垂跡とし坂本なる地主の神大麻止乃豆の天神に神秘一座を加へて二座合一の神社とし、御嶽山大権現と号せり、
[中略]
祭礼毎年十二月二十八日、武器をかざり神輿を渡す、是を陽祭とも花祭との唱へり、 又九月二十九日流鏑馬あり、これを陰祭とも合穂祭とも云、 其余春秋社日四月八日・七月七日・十一月十五日にも略祭あり、 又近里遠村のものつどいて、太々神楽を時々奉納するにより、山上常ににぎはへり、
拝殿 東面にたてり、八間に四間、 左右に石にて作りし狗、二躯をおき、前に石階二十五級あり、
奥院 本社より西の方十八町を隔てゝ、甲籠山の中腹に特立せる盤岩にあり、是を岩倉と唱へり、 社地の内凡十五六歩、小社にて前に二間に九尺の拝殿を立、 祭神は伊弉冊尊・火産霊二座也、 神体は円径八寸許の鏡にして、右手に剣を擁し、左手を膝上に置、面相威厳ある像を鋳出せり、
奥之奥院 奥院の後背なる絶頂にあり、 社地凡二十坪余、 石の小祠にて銅扉なり、 大天狗・小天狗・桜坊の三座をあはせ祀れりといふ、
[中略]
鳥居 貧乏山の下当村と柚木村との境にあり、 石にて作る、 両柱の間一丈、高さ一丈一尺、 御嶽山の三字を扁す、 これを一の鳥居と呼べり、 こゝより社前までおよそ五六町程あり、
[中略]
木鳥居一基 社頭を隔ること凡二町ばかりにあり、 艮向にて高さ一丈五尺、 これを二の鳥居と呼べり、
楼門 二鳥居を入て正面にあり、 檜皮葺にて高さ二丈七尺、横六間半、幅四間半、 左右に金剛力士二躯ををき、 楼上に東国社稷総社御嶽山の九字を扁せり、
銅鳥居 楼門を入て正面にあり、 高一丈二尺、両柱の間二間余、 武蔵国号社の扁額あり、 これを三の鳥居と呼べり、
撞鐘楼 楼門の左にあり、 鐘の円径二尺二寸、 近き年の鋳造なれば、銘文は略してこゝに載せず、
鐘楼 本社より東北にあたりてあり、 三間に三間半、 鐘の長三尺、円径二尺五寸、 銘文あり、
[中略]
この鐘楼の背後に東照宮の御宮あり、 檜皮葺高欄造りなり、すべて御紋散しにして、廻り三間四方朱塗の瑞籬を構へり、
神輿殿 本社の後背右の方にあり、 二間半に三間、 神輿は御紋散なり、
[中略]
末社 地主神 本社の後にあり、 【延喜式】神名帳に出せる大麻止乃豆天神にして、神明を配祀せりといへり、 されば最古き神社にて、御嶽の鎮座以前よりの神なるにより、地主とは称するなり、 されど今は末社のごとくなりたり、
籠守明神社 本社の右にあり、 神体は甲冑の女体、小児を懐きし木の坐像長一尺八寸ばかり、 神功皇后なりとも、或は句々幡淺々媛命なりとも云、
勝手明神社 同じ並びにあり、 神体は甲冑をつけし武夫の木像にて、長一尺八寸、 受鬘命をいはへりと云、
恵比須大黒相殿 本社の左にあり、 社前に鉄にてたはらの形に造るれる長二尺五寸、径一尺五寸ばかりなるものあり、
[中略]
八所相社 同じ辺にあり、 三尺に四間、 雷神・風神・山神・役行者・宇賀神・弁天・三嶋明神・春日明神の八座を祀す、
風神社 是も本社の後にあり、小祠、
巨福社 同じ辺にあり、 大国玉命を祝ひまつれり、 近郷の人是を耕作神と呼びて、社前の土を請持ゆきて、田畑へほどこせば、必五穀豊熟すと云、 又報賽には其郷里の土を持来り奉納せり、
愛宕社 本社の西一町許にあり、小祠、
稲荷社 楼門を入て右の方に三祠ならびて立、 一は金富利稲荷と号し、一は藤本稲荷、一は柳稲荷と号せり、 共に称号のおこりを詳にせず、
疱瘡神社 二の鳥居の下右の方にあり、 祭神菊理姫命、木の坐像長一尺八寸、
富士浅間社 本社の北八町許を隔て富士峯と云処にあり、小社、 祭神は木花開耶姫命、木の坐像長一尺余、 源頼朝建立する社なりと云、 例祭は四月初申の日を用ゆ、
熊野社 本社の東南大久野村の境にあり、小社にして上屋あり、
山王社跡 楼門の右にあり、
釈迦堂 二の鳥居の下右の方にあり、三間半四方、 木の坐像長一尺六寸許を安す、
観音堂跡 鐘楼の左にあり

世尊寺

御嶽社楼門の下なる釈迦堂の東の方にあり、 金峯山鈴額院と号し、新義真言宗、山城国醍醐三宝院の末にて、 開山の僧源教は、建久九年三月十四日寂せりと云、
[中略]
当寺天明中に廃寺となりてより未だ再建に及ばす、 古刹なれども廃興ありしゆえ、すべて伝へを失せり、 当山の社僧にて祭式及ひ配□等の事にあづかれり、 再建の間しばらく柚木村即清寺是を兼帯せりと

「御嶽神社の祭り」

御嶽山の歴史とその担い手

 標高929メートルの御嶽山には、山頂に武蔵御嶽神社が鎮座し、御祭神に、神占の神である櫛真智命・国土豊饒の神の大己貴命・少彦名命が祀られている。
 また延喜式(905〜927)の神名帳にみえる、大麻止乃豆乃天神社としてしられるところである。
[中略]
 御嶽山の修験道の歴史は、聖武天皇の天平八年、行基によって開かれたとされているが、平安末修業僧源教上人によって、こうした修験者たちの廻峯修業の拠点として堂舎が開かれたのにはじまると考えられる。 いま、江戸時代新義真言宗醍醐三宝院の末と称せられた、金峯山世尊寺社僧の系譜が伝えられている。 この第一世源教より江戸時代中期第二十世日応まで、その寂年月日が記録されている。
 第一世源教上人は、鎌倉時代はじめ建久八年(1197)に入寂し、次を継いだ第二世法印慶悦は文暦元年(1234)に没している。 これよりのち、第三世法印崇啓にいたるあいだ、無住の空白がある。
 これを補うものとして、建長八年(1156)の縁起一巻が伝えられているが、それによれば、久しく神明に奉仕し、山林に修業した散位大中臣国兼が、霊夢によってこの御嶽山が、蔵王権現が垂迹した場所であることを告げられ、草庵を営み搗鐘をこしらえ修業を重ねた。 三尺の金銅の金剛蔵王権現の御神体を鋳造して、法のごとくに八尺の宝殿を建て、瑞垣を四面に廻らせ、赤巌両師・勝手子守の護法の四神の祠を整え、垣の表には一間の小堂を造り五尺の不動を安置するなど、堂塔は整備され、参拝拝観の人つづき、文暦元年より建長八年まで二十三年の精進勤行によって繁栄するようになったという。 国兼は御嶽山中興の祖と仰がれ、また神主家(大宮司家)の祖とされている。
 国兼がなくなってからおよそ五十年、武蔵国の古い豪族と思われる壬生氏女によって、久しい間御嶽大権現の神助を蒙り、八十歳の生涯をまっとうしてきたが、なお余生の安穏を願い、神の加護を頂いて来世の弥陀の来迎にあずからんとして二階の楼門を建立し、金色の釈迦如来像一体、彩色地蔵菩薩像六体、金剛力士像二体を造り、尊像は階上に安置し、仁王は階下にたてた。 これは現在の随身門のはじめである。 また法華経六十六部五百二十八巻を書写して、諸国および当山に奉納し、正和三年(1314)鎌倉極楽寺の長老を導師に乞うて法養をいとなんだという。 これらは壬生氏置文と称される正和三年縁起一巻にのべられているところである。 壬生氏女はこれより先、徳治二年(1307)長三尺径二尺五寸の梵鐘を造り、これを納める鐘楼の造営もおこなったのである。
[中略]
 信仰形態が変化し、本地垂迹説が衰えはじめるなかにあって、社殿修復のため宝暦十三年(1763)社木を伐採したことで、明和三年(1766)、神主・社僧と御師も処罰されたのであるが、これをきっかけに二十世つづいた社僧世尊寺の日応は引退し、天明八年(1788)別当の世尊寺は廃寺となり、何百年もつづいた御嶽山の神仏共存の歴史もついに破れるにいたったのである。
[中略]
 こうしたなかでやがて明治維新を迎え、明治元年(1968)、神仏分離令に際しても、他の山岳宗教地にみられるような混乱もなく、これに応える形で神道への移行がおこなわれた。
 すでに八十年前廃寺となっていた世尊寺本地釈迦堂は取りこわされ、釈迦像は根ヶ布の天寧寺に移し、徳治二年の古鐘はつぶされ、鐘楼は鼓楼と名称を変え、山門から仁王をはずして随身門とし、神主御師の菩提寺正覚寺は土地・建物・什器を整理して住僧は山上を去り、その檀家は神主(大宮司)金井氏が引き継いで、金井氏も御師の仲間入りをしたのである。