「木曾路名所図会」巻之一
長浜
将軍山放生寺舍那院(長浜八幡にあり。一山二十一坊)
本社八幡宮(祭神、城州石清水と同じ)
本地堂阿弥陀仏(本地仏とす)
高良社(本社の東にあり) 地主神宮
熊野三所祠(西にあり) 稲荷祠(上と同所にあり)
薬師堂(同所にあり) 地蔵堂(上と同所にあり)
護摩堂(同所に隣る)
当社は、初は八幡太郎義家公東夷征伐の時、こゝに勧請したまひ、厚く尊崇ありて、社領三千石寄附し給う。
其後後三条院勅願所とし給ひ、勅使下向あらせられ、放生会を執行せらる。
「近江国坂田郡志」第四巻
県社八幡神社は長浜町大字神前に鎮座す。
境内四千四十六坪あり。
社伝に延久元年源義家の奏に依り、後三条天皇、神道長上ト部兼親をして石清水八幡宮より三社の神霊を分祀勧請せしめ給ひし所なりとあり。
祭礼に「太刀渡」の古式あるは、当年義家が湖水を渡り来りて此の地の湖岸に上陸、舟人等の嚮導にて当社に参拝せし時の遺風なりと言ふ。
一説に、垂仁天皇の御宇、勧請して崇神、「湖水の社」と称せしが、和銅三年、八幡宮を勧請し、後、延久元年に至して石清水八幡宮の別宮とせられたるなりと見ゆ。
更に説あり。
即ち、坂田八幡宮は、神功皇后本郡より出で給ひし御縁に依り、其の御子応神天皇を奉斎せしに始るとも言へり。
[中略]
初め義家が当社を勧請するや、神宮寺を造り、坊舎を建て、朝廷に奏して勝軍山の号を賜れりと言ふ。
延久二年八月十五日、石清水八幡に放生会を行ひ、爾後恒例とせられたれば当社も亦、是れに傚ひ、放生会を修せらるゝに至れり。
当社の神宮寺を勝軍山新放生寺等と号するは、蓋、是れより起れるならん。
[中略]
然して此の本地堂には、弘法大師作と伝ふる木造愛染明王坐像及び恵心僧都作と称する阿弥陀如来坐像を本尊とし、東に毘沙門天・弘法大師、西に吉祥天・理源大師を安置し、裏堂には大日如来を安置せり。
但、此の大日如来は、古への三重塔の本尊なりしと言ふ。
是等の仏像は、明治の初年舍那院に移され、愛染・弥陀の両像は、共に明治三十八年四月四日国宝に指定さる。
本地堂は、猶、境内に残りて神仏混淆時代の形骸を永く止めゐたりしが、昭和十四年、是れ亦、舍那院に移築して、諸仏像は元の堂に安置せられたり。
明治維新の際、八幡宮の社坊二十一坊は尽く廃したれども、当院のみ残し、仏家に関する仏像・仏画・什器及び堂宇に至るまで、殆ど当院に移して、神仏を分離せり。
当院の本尊は、元、不動明王なりしが、此の時より、八幡宮本地堂に安置せし木造愛染明王坐像及び木造阿弥陀坐像を移して本尊とせり。
「近江国坂田郡志」第五巻
長浜町大字神前に在り。
勝軍山と号す。
八幡宮の別当寺なりしなり。
往古は神境に七堂伽藍坊字羅列せしが、中世屡々兵燹に罹り、元亀天正の頃全く廃滅したるを、羽柴秀吉再興してより、漸く旧に復し、神領百七十石を附せられ、妙覚院は山内一﨟の住房に舍那院は学頭となる。
他に寺坊数多ありて八幡宮を囲繞せり。
神前の奉仕は別当社僧にて擔当し、神事は総て両部習合にて、浮屠氏の手に帰したるは、猶、石清水八幡宮と同様なり。
故に境内に本地堂を建て、愛染明王を安置し、頗る隆盛なりき。