長等神社 滋賀県大津市三井寺町4丁目 旧・県社
現在の祭神 建速須佐之男大神・大山咋神
[配祀] 市杵島姫神・三尾大神・八幡大神
本地 薬師如来・如意輪観音

「長等のあゆみ」

宇野茂樹「長等神社の由来」[LINK]

 長等神社は古くは新宮権現祠、山王新宮、新日吉社と称され、現社名となったのは明治十五年(1882)になってからである。 社伝によると、貞観二年(860)智証大師円珍が、日吉神を勧請して園城寺の護法神として祀った。 これがこの社の始めであるとしているが、文献で社歴を知ることのできる最も古いものは、応永年間(1394~1428)園城寺山内子院慶音院の僧侶あった志晃が編纂した『寺門伝記補録』である。
 『寺門伝記補録』第五祠廟部に、南筒井の新宮権現祠はまたの名を山王新宮、或いは新日吉祠と称し、園城寺南院に属した。 天喜二年(1054)円満院前大僧正明尊が、上山王祠を山麓に遷し、庶民参詣の便とした。 人は新宮と呼び、その所在場所を神出といった。 そののち社頭の馬場前はしだいに民家が建って一村をなし、これを神出村と称し、祭礼は毎年五月五日であると記している。
[中略]
 ところで、長等神社の神楽殿には木造薬師如来坐像(像高46.5センチメートル)と木造如意輪観音坐像(像高48.5センチメートル)が祀られている。 この二躯の像底にはそれぞれ薬師如来像には「山王大明神本地仏」、また、如意輪観音像には「山王新宮大権現本地仏」と銘記があって、神仏習合時代に長等神社の本地仏であったことを示している。
[中略]
 天台宗では、根本中堂の主尊である薬師如来は釈迦・阿弥陀の性格をも兼ね備える尊像であると説いているから、このような思想が左右して、東本宮の本地薬師如来を安置して西本宮・宇佐宮の神をも兼ねるものとなしたと思うのである。 一方、如意輪観音は中世以降、特に中世後半に広く信仰が普及していった三十三所観音巡礼の作用をうけて、近接する西国三十三所の園城寺観音堂本尊如意輪観音にちなんで、宇佐若宮の下照姫神を新しく延元元年(1336)社殿焼失後の再興どきに勧請して、山王の新しい神の意味で「山王新宮大権現」と呼んだのではなかろうか。