天満神社 香川県高松市中間町 旧・村社
現在の祭神 菅原道真
本地 毘沙門天

「讃岐国名勝図会」巻之七

中間天満宮

山崎村にあり。 社人菅岡勇。 祭礼八月二十五日
本地堂 毘沙門天木像。古物
社記に曰く、仁和二年正月、菅丞相当国の守護として下りたまひ、南条郡国府に住みたまふ時に、当国北岡の城主押領使秦久利といふ者、忠誠にして親しく仕へ奉り、文学の才ありければ、菅公も御寵愛したまひて北岡の城へも折々駕をまげたまふ。 また久利も坂田の郷橋詰なる菅公の別館へ平雅倶云ふ者も伴ひて、詩歌の御遊びにも侍り御懇志深く、久利老衰の頃致仕を乞ひける。 ただ一女ありて嗣子なかりしかば、菅公これを憐み公の族子をたまはり、彼の愛女に娶らせ家を継がせ、久利の名を氏となし久利長門守と称せしむ。 公の愛憐他に越えたり。 その後菅公当国の任終りて京師に帰りたまひ、延喜元年正月勅勘を蒙りて太宰府権帥に任ぜられ筑紫に趣きたまふ時、浪花の浦より御船に召され、風雨烈しくて当国葛西の郷憂ヶ鼻に御船(今、香西浦牛ヶ鼻云ふ)をよせたまふを聞きて、久利は年老いても家を出づる事あたはず、嗣子長門守、竜燈院空澄及び雅倶等伴ひ菅公に拝謁す。 御名残もしかりけん、筑紫までともに随従し奉りたくとありしかど御ゆるしなかりければ、御船の影の見ゆるまで見送り奉り、皆々涙にむせびて別れ奉り、その翌年長門守ひそかに筑紫に行きて見舞らせしかば、御感のあまり御歌をたまふ。
おもひきや心づくしのはてに来てむかしの人に今あはんとは
かく詠じたまひ、讃岐より筑紫に趣きける時にもまた風雨あらくして、筑前博多の岸に御舟を繋ぎ、浜辺に船の綱を敷きてしばし休みたまひし。 物うき事など御物語ありて、すなはち鏡に向ひ自らの御姿を画き、飛梅の核一顆を添へてたまひける。 さてもあるべき事ならねば、御暇申して帰りける。 その梅核を植ゑ置きけるに、芽を出だしてやうやう長じ、枝葉大いに繁茂して五色の花咲きける。 よりてその梅を五色梅または菅手梅・唐梅・中間梅とも名附けてむかしの色香を残しける。 その後菅公筑紫にて薨じたまふと聞きて、神廟を造り彼の神影を納め奉る。 世々網敷天神と称するはこれなり。 また神社の前に影向松といへるあり。 往昔菅公この松に影向したまひけるを、長門守拝し奉りけるによりて、菅神影向松といふ(菅手梅・影向松、古木、今なほ存す)。 同境内に腰掛石といへるあり。 菅公久利の許へ入りたまふ時、この山に遊びたまひ、この石に休みたまひける古跡なりしと云ひ伝ふ。 また天神畑といふ地名あり。 長門守その所に別館を営み、時々請じ奉り慰めまゐらせし所となん。 その後久利子孫、世々祭り尊み奉りける処に、天正年中兵火にかかり焼亡せしかど神影は全かりしゆゑ、久利の後裔小社を最営仕りしを、生駒家より尊敬したまひておひおひ修造あり。 国祖君源英公、御入部の後度々御参詣ありて、その後世々の国君御崇信あり、社領等をたまひ、かつ御修造たびごとに米若干をたまふ。 天明三年まで国君および公女御参詣ありしかど、今は稀なり。 当社は当国の惣鎮守なりしといひ伝ひけるゆゑ、国君度々御参詣ありしとなん。
往古この地を中妻と云へり。 河内の国道明寺の里を上妻といふ。 筑紫を下妻といふ。 各菅神の社あり、ゆゑにこの地を中妻と云ひしが、その後今の文字中間と改めり。