楢神社 奈良県天理市楢町 旧・村社
現在の祭神 五十狭芹彦命
本地 訶梨帝母

「平成祭データ」

大和楢神社栞

当社の由緒については古板木によると、 「伝聞大和国添上郡楢郷楢大明神は往昔加賀国石川郡白山の嶺に現れ給ひて、祭神御神諱を石川比咩命と号し奉るなり。 御本地は訶黎帝母に在し此御神慈照方便深くして抜苦与楽の御神なり。 御神誓空しからずして和光同塵の眼を開きたまひ小児を愛し給ひ万民撫育し給ふ事世の人の知る処なり。 抑当社御鎮座の濫觴は神護景雲元年九月十三日白山の嶺より天真阪樹に乗給ひて当国石川乃河上楢郷に着給ひて此神木に影向あらせ給ひて光を放ち給ひ庶人奇異の思ひをなして人皇四十八代称徳帝の御宇奏聞を遂ぐ其後神託によりて此所へ社殿造営有しといへども練苦風雨に破し将又兵火乱放の為に亡し其後時移りて時代の大守君より社殿再建有し事も星霜八百余年を経れば雲を凌ぐ社殿門扉も其形残るといへども旧殿乃有し所今礎さえも定かならずといへども明神の擁護は日々夜々に新しく影向の神木は兵火の厄に焼亡すといへども樹根より若芽を生して枝葉今に繁茂して古代かわらず今社内にあり斯霊地なるがゆへに歌に吟じ詩に賦して世に楽しむ事全く当社の神徳いちじるしければなり。 故に此社へ一度歩を運ぶ輩は諸願成就皆合満足して諸人は愛敬を得て武門は家運を弥増し農業工匠商家は各其業職を安穏にして福徳自在長寿になさしめんとの御神賜也。 実に参詣の輩さへかくの如し況や仮にも楢号を受け氏子となりて祈願の輩は諸願多在といへども攘賜招福長寿延命の霊神何そ其人を護り給はざらんや嗚呼信ずべし尊むべきは御神徳なり、将に願くは有信乃輩共に信施を催し給へとしかいふ。
これによると祭神は石川比咩命にして、加賀の白山権現で本地は訶梨帝母で石川という地名が楢の西にあり今大和郡山市に属していてその川上が楢で、もとの鎮座地は今の場所でなく、上の宮と称する神明社の地と伝えられる。 古の山の辺の道に沿い元禄年間の櫟本村絵図にも、ここを楢村宮と記されている。 神明神社は天照皇大神を祭としているが恐らく兵火で焼亡した以後に今の地に移し、その跡を神明神社として崇敬したと考えられる。 当社は下の宮と称していて、当社の祭典当日に当屋の主人および大字の係員、親戚らが渡御の行列で、本宮から奥宮(上の宮ともいう、神明神社のこと)へ旅されるのである。
また別な板木を読むと、 恭敬給当社楢大明神は祭神石川比咩命にして本地は円満具足天の陰神訶黎帝母天に在野の神霊験著明く諸願必ず協給ふ[中略]翌十四日(三月)金剛寿命経(千巻)読誦奉り寿命長延ならしめんと欲す(下略)慶応二丙寅年仲春社預執事。社人木村金吾とある。 維新以後になつて五十狭芹彦命神社(祭神五十狭芹彦命)と改めた。 何によるか事情はよくわからないが、日本書紀の崇神天皇の条にある「武埴安彦その妻吾田媛と共に謀反逆す。五十狭芹彦命を遣して吾田媛の師を撃たしめたまふ」とあるによつて五十狭芹彦命を楢と那羅山の名から氏神としたものか、明治・大正・昭和の初までこれで来たが昭和31年6月19日に至つて社名をもと通り楢神社と改めた。 そして7月9日に登記をしたが祭神名は五十狭芹彦命となつている。