子之神社 |
神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目 |
旧・村社 |
「新編武蔵風土記稿」巻之五十九
(橘樹郡之二)
菅村
根の上社
村の鎮守なり、
南の方丘上にあり、
別当法泉寺の縁起を以て考るに、其略に云、
当所菅村地主明神は大己貴尊の霊廟にて、その鎮座の年代をしらず、
本地は十一面観音なりと、
又後人薬師第一の夜叉大将を宮毘羅神に習合してこれを崇む、
よりて子神と名づく、
又保元の乱の白河殿夜討の時、鎮西八郎為朝が義朝に向て放ちし矢鏃を、
義朝の妾常盤の前素願のことありて、常に懐を放たず、後に其子義経に譲り与へける、
是より義経も身をはなたずして奉じける、
爰に当村の薬師仏はもと常盤の前が守護仏なりしが、乱逆の際移転して当所の仙谷と云所へ遷座ありしなり、
一年義経この堂に参籠して従者十三人と同く、この本尊を念じ、義経懐中よりかの矢の根をとり出して医王殿に納めける、
夫より地名を大箭所といへり、
後かの矢の根を仏前より申おろし、地主明神の祠へ納めて神体とせしにより、
其字音の近きゆへ子神を改て根神とす、
社壇を竹鼻と云処に築きて、惣郷の鎮守とす、
これより毎歳正月九日神前にて猿楽の男舞及賭的あり、
楊の弓青竹の箭を以てこれを射る、
名主二人氏子七ヶ村のものとも座に列するを以永式とせり、
[中略]
本社一丈四間に二間、
前に石の鳥居をたつ、
夫より前に石階五十余級あり