野間神社 鹿児島県南さつま市笠沙町片浦 旧・村社
現在の祭神 瓊瓊杵尊・木花咲耶姫命・火闌降命・彦火々出見尊・火明命
本地 阿弥陀如来 観世音菩薩

「三国名勝図会」巻之二十七

野間嶽権現社[LINK]

野間嶽の八分にあり。 赤生木村に属す。 両社を分ち建て、東宮西宮といふ。 勧請年月詳ならず。 東宮二坐、瓊々杵尊、鹿葦津姫、是なり。 西宮三坐、娘媽神女、左右千里眼、順風耳、是なり。 本府神官本田親盈【神社考】云、野間権現、祭神六坐、東宮瓊々杵尊、鹿葦津姫、西宮火闌降命、彦火々出見尊、火明命、其後娘媽婦人を当社に合祭す、因て野間権現と号すと。 今東西両宮の祭神を撿するに、東宮は、瓊々杵尊、鹿葦津姫の二神なりといへども、西宮は娘媽神女、左右千里眼、順風耳、三体にして、火闌降命、出見尊、火明命の三神あることなくして、本田氏が説と合はず。 蓋是娘媽神を此に祭るに及て、娘媽神を崇奉する者、漸々盛になりて、火闌降命等の三体は廃せしなるべし。 野間嶽権現の神号も、娘媽神に本づくとの説もあれば、此嶽は娘媽神女、特に盛なるを見るべし。
土人の説云、娘媽は、唐土復建の南、甫田に林氏の女あり。 生れて霊異なり。 一日神女機上に在りしが、忽驚て曰、阿父無恙、兄は溺れ死す。 既にして報至る。 果して然り。 父怒涛の内に於て、幾と溺る、扶護する者あるが如し。 遂に安を獲たり。 兄は舵摧けて溺れ死すと。 神女誓て曰、後来海中難に遇ふ者あらば、我を念て救護を乞はば、我必す是を救はんと。 遂に海に投て死す。 其後神女の屍、加世田の海渚に漂ひ来る。 皮膚麗しく、桃花の如く、煖にして、生人の如し。 遠近大に驚異し、礼を以て葬る後三年唐土の人来り。 尋ね、其神骨を分て、帰葬せんと請へり。 爾来神女の霊応甚多し。 因て社を山上に建て、是を祭り、西宮と号すといへり。 此神女の屍、加世田に漂ひ来るといふは、誤り伝へなるべし。 唐土の説に見えざることなり。 此娘媽神女は、唐土に於て天妃と称し、霊応顕著にして、香花甚盛んなり。 又此神社の事は、宝永年中、長崎深見玄岱が碑文、并に西川氏が著述に詳なり。 下に附する故、此には具述せず。
東宮は天文二十三年、九月、西宮は永禄十年、九月、梅岳君共に新建したまふ。 西宮は大ならずと云へども、佳麗を尽さる。 其後大風の為に破壊す。 因て仮殿を建て、東西二社を一宮に合せ祭れり。 梅岳君以来、世々の邦君厚く崇敬せられ、正祭には、毎歳地頭館の庭上に於て祭祀の式あり。 宝暦六年、別当愛染院住僧所著の由緒記曰、梅岳君御誓願の為に、別当愛染院を重建あり。 時に野間嶽神祠に参詣せんとして、二華表に到り給ひしに、忽ち守護不入山といふ、扁額を現し掛く。 君是を異とし、其地より即還り、神幣を庭上に立て、祭祀を行ける時に鹿籠の敵いまた降伏せず、梅岳君の御帰路を襲とて、越路坂に兵を伏す。 此日宮原佐渡といへる土人、野間山神事に赴きけるに、伏兵起て佐渡と戦けるが、梅岳君は昨日既に野間山より帰り玉ひし後なるを知り、兵を収めて退く。 是天文九年、正月十九日の事なりとぞ。 梅岳君は遂に危難を免れたまひしかば、是より故事となりて、地頭館の庭上に神幣を立て、祭祀を行はること、今に替らず云々。
又今の邑吏の話に娘媽神霊異甚著し。 此神海岸の湖水を汲み玉へるとて、神火時々現ずることあり。 神火は毎に二塊あり。 其一は径り一尺五寸許、其一は一尺許あり。 其始は野間嶽の絶頂、白石といへる辺より現ず。 叙々として嶽の後面を周り行き、是より神渡といへる辺りに下り、又始の道を行て帰る。 神火を見し者は、今若干人あり。 又洋中にて風濤に遭ひ、暗夜等危難の時、誠心に祈願をなせば、絶頂に必す神火を現ず。 此霊応ある時は忽ち方位等相分り、危難を免れ、安全を得るなり。 かゝる神異毎度ある故に、衆人尊崇敬畏せざる者なしといへり。
当社は古来野間嶽の絶頂にあり。 文政十三年、庚寅、十二月七日、今の地に移さる。 絶頂の旧址には、石欄を繞らし、鉄鉾を建つ。 社地は嶽の南面にて、絶頂より峰下六町三十三間許に当れり。 岩を削り、地を平にして、社を構ふ。 其側に水泉湧出す。 正祭、正月二十日。 社司を鮫島氏、別当を愛染院といふ。 長崎通商の唐土人、娘媽神を崇仰す。 其事は愛染院の下に記す
○本地堂 野間嶽の八分にあり。 即野間神社の下に接す。 本地阿弥陀如来を安置す。 又堂内に、娘媽神女石像一坐、及ひ千里眼、順風耳、石像二坐を安置す。
或は此堂を娘媽堂とも称す。 一旧記に曰、明人林氏乱を避て、加世田片浦に来り住し、天妃の像を奉し来て、此堂を建て、神像を安置す。 其子孫今片浦に家へすと。 今是説を邑吏に問ふに、然らず、今片浦に唐土より帰化せる林氏の家現存す。 林氏の祖先は唐土より天妃の像を奉じ来るといへども、其家に安置して、今に祭祀を修す。 此山中に堂を建て、天妃を祭りし事はなしといへり。
[中略]
○野間山大権現略縁起
抑薩摩の国野間山といへるは、大悲の霊場也。
往古唐土福建の南海に甫田といふところあり。 此浦の漁家林氏の娘、生れて霊異あり。 十余歳にして、我は是海神の化身なり、海洋に入て、往来の船を守護すべしとて、忽海水に没死す。 則甫田に廟社を建て、船神と是を崇祭りて今にあり。 時に大明の天子より、天妃娘媽の諡号を賜り、則観世音菩薩の化身として、唐土の諸船甚た尊敬し奉ぬ。
其の海洋に没せし尊体は、流れて薩州の海辺に寄来れるを、取あげ、則山上に葬奉り畢ぬ。 其後種々霊異の事ども有て、往来の船の諸願を叶へ給へり。 仍て長崎往来唐船も、洋中にて初て此霊山を見れば、紙銭を焼、金鼓を鳴らして、拝祭せり。
是よりして此山を野間山権現と号せり。 野間の和訓は、これ娘媽の唐韻の転語なり。
又長崎の津外七里南に野母といへる浦里あり。 高山の麓に寺あり。 本尊一体、御長七尺計、行基菩薩の作にて、【元亨釈書】にいへる、日御崎観世音これなり。 此高山の下を日の御崎といふ。 唐船も又これを遥拝す。 野間と野母の通韻にて、殊にいづれも観世音の霊地なればなり。 皆姥媽の転韻なり。 故に野間野母の両山ともに唐土の人は、天堂と号し奉りぬ。
[中略]
○白石権現 野間嶽絶頂より下三町許、北面にあり。 巨嶽あり。 高さ数十丈。 土人神と崇む。 遠望して能分る。 其側に清水湧出す。 俗に手洗水と称して、神水とす。
○神渡 野間嶽の南、赤生木村の海浜にあり。 土俗の説に、娘媽神女虚船に乗て此処に至る、農民驚き、茅を敷き坐を献すといへり。 今に其子孫歳暮に橙実、及ふ拝筵を野間山神社に献ず。 此所土人崇敬して神迹とす。
○田中宮別火所 片浦村に属す。 野間嶽北麓にあり。 嶽の絶頂を距ること一里許。 水田の間に小社を建て、猿田彦大神を奉祀し、別火所とす。 野間嶽権現社の代宮司宮原氏、毎歳八月朔日より、家人を携へ、爰に寓止して、斎戒をなし、野間権現を祭り、十月朔日に至て止む。 且野間権現祭祀の神酒を醸し、神供を調ふ所なり。 此往古よりの故事にて、其始をしらず。 此田中宮の例祭は、八月十五日、九月九日、両度なり。 天文二年の棟札あり。