野間神社 石川県金沢市玉鉾町 式内論社(加賀国加賀郡 野間神社)
旧・村社
現在の祭神 豊宇賀能売命
本地 阿弥陀如来

「加賀諸神社縁起」下

白山御供田玉鉾神社縁起

当舍本尊無量寿如来は、往昔越智山泰澄大師一刀三礼の尊像白山大明神御同作にて、其霊験多端なり、
[中略]
其後、大師白山の絶頂に到り十一面観自在尊を拝す、今の御前是なり、 又左洞に赴き孤峰に登て小白山大行事を礼す、是聖観自在の変身なり、今別山の神躰なり、 又右に登て翁に遭ふ、名をは大己貴といふ、則西刹浄土の教主なりと云ひ終てかくれぬ、今御内陣の神是なり、 于時大師三十六歳、是より大師此峰に住て、絶頂に一宇を建立し、御前の十一面尊像及ひ御内陣の本地無量寿仏、別山の観世音等の尊像を自から彫刻し給ふ、 四十八代称徳朝神護景雲元年三月十八日大師寂す、于時八十六歳なり、一天四海是を悲泣す、 然るに此白山は三冬の初より深雪谷を埋、烈風砂をまく故に堂宇も大破し、仏像も数千丈の谷に吹落しける処に、大慈大悲深重無比にして、或時は霖雨降続き洪水夥敷、陸地舟の行くか如し、 此時に至りて水深谷に満て、此中尊の無量寿仏流に乗して遠く白山の絶頂より此石川郡米丸庄手取川の岸に来寓御座す、其時手取川今玉鉾の腰を流る、 里民仏像を取上奉りて樹下に安置し、花香の礼拝を厳にす、 幾許ならすして邑里となる、名付て玉鉾の里といふ、 仏法興隆の時至りて終に霊場と成、寺院甍をならへ、社僧・衆徒軒を争ふ、 弘法大師北国通路の時、当舍に社詣ありて仏像を彫給ふ、今の観音・勢至二大士、不動・毘沙門の脇士なり、 蓋度々の洪水・兵火の災難に荒廃して仏像・霊仏共に或いは土中に埋れ、或は河流の水底に沈み給ふといへとも、末世有縁の無量寿仏及ひ観勢明王天王の五仏のみ巍々として今に利生を施し、恵日の光は赫赫として猶年を遂ふて明らかなり、 仰其昔をかへりみ、伏て来由を今に問は、観音大士は妙理大権現と顕はれ、西方阿弥陀慈仏は大己貴命と現し給ひ、我秋津洲百王鎮護のまなしりを垂れ給ふ、薩埵は即ち弥陀尊仏の分身なりと仏勅上に誌するか如し、 今世朝暮に歩をはこひ、二世の願望を于爰祈る、四民酢白山の絶頂に詣るに等しかるへき者歟