一之宮貫前神社 群馬県富岡市一之宮 式内社(上野国甘楽郡 貫前神社[名神大])
上野国一宮
旧・国幣中社
現在の祭神 経津主命・姫大神
本地
俗体弥勒菩薩毘沙門天
女体観世音菩薩

「神道集」巻第三

上野国九ヶ所大明神事

一の宮をば抜鉾大明神と申す。
俗体は弥勒菩薩なり。 この仏は減劫第五の如来、当来三会の教主なり。
女体は観音なり。 この仏は大悲闡提の大菩薩、能施無畏の大士なり。 この御神は金光明経の体なり。

「神道集」巻第七

上野国一宮事

そもそも上野国の一宮、抜鉾大明神と申すは、人王二十八代、安閑天王の御時、我が国へ来給へり。 この帝の御宇乙卯年三月中半の比、上野と信濃の境なる笹岡山に鉾を逆に立て御在す。 ある伝には阿育大王の姫宮、倶那羅太子の御妹なり云々。
[中略]
かの明神の御本地は弥勒菩薩にて御在す。 結縁の衆生は、必ず五十六億七千万歳の後、慈尊出世三会の暁、決定成仏を見るべし。

「上野国一宮御縁起」

そもそも、上野国一ノ宮抜鉾大神と申し奉るは、仁王二十八代安閑天皇の御宇に、我朝に来臨し給ふ、
[中略]
茲の御門の御時、教倒四年(壬寅)三月十五日に、上野と信濃の境に蓑岡山と云処に、御鉾を立て御坐す、 其の由来を委く尋ね奉るに、阿育大王の姫宮にて、南天竺鳩留米国の仁なり、
[中略]
爰に仁王三十九代天知[天智]天皇の王子、天武天皇磯部帝、当国白井郡野究里に流され御坐す、其れより、彼の所を磯部の郷と号す、 或る時、御狩の為に彼の丸山崎に行幸の時、此の太子の御肩に飛ひ着き給ふ、 我は是れ南天竺の者なり、衆生済度の為に、本朝に来る、吾は汝を頼むべし、汝は吾を頼め仰せければ、 有り難く尊く思い奉り、白鳳六年(壬寅)三月十五日、同(壬寅)日、菖蒲ガ谷に社檀を建立し、崇敬し奉ること際り無し、 而て蓑岡に着き給て、二百余歳の星霜を送りたまふ、 左て天竺御坐の時、鉾を抜き脇に夾み、本朝に渡り給ふ故に、鉾を抜くと書て抜鉾太神と申し奉る云々、
諷て御本地を尋ね奉るに弥勒菩薩なり

「一宮御本地堂縁起」

抑上毛ノ国一宮抜鉾太神御本地は多聞天之尊像なり、
[中略]
我国ゑ天王出現の権輿わ養老年中、兵庫の宿禰と申仁、東夷征伐之勅命を蒙り、初て中仙道を切り開き、当国に押移りて広原に止宿して敵の多少を見、謀事を廻さるゝ、末世に□を人見ガ原と云、 有夜、金の甲冑を帯し左の手に戟を執り、右の手には軍配団を持威勢猛き形相にて曰、 善哉善哉、われは是日頃信心なす処の軍神之多聞天なり、 当国貫前宮は我か分神なれは長く此土に止つて天下の守護をなすベき間、軍終らば彼処に一宇を立、我を安置せよ、軍の勝理うたがいなし、印に是をあとぶべしと御手の軍配なげすて光明放て南をさして飛さりたもうと見ゑて夢さめたり、 宿禰大きに感心し、向をはるかに見渡せは一むら之雲気立、急行と見るに小高き所草茫々たる其中より金色の毘沙門天の尊像を得たり、 なをなを信心きもにめいじ、彼尊像を守り奉り、陣に向ふに朝敵忽チ朝日に霜の消るが如くに亡たり、 則凱陣の砌一宇を東西に向を興隆し、右の尊像を納め恩を報じ奉て帰洛有り、
亦、先年抜鉾大神鎮座のときさわいなすの悪神有、 荒舟山の方より曇くものをこして鎮座を障碍せんとする時、彼の天の神通の兵ををこして悪鬼を千里の外え追退け、 ソの時の神威今に至て正月七日毘沙門の祭りとて、彼天鬼を追いたまうの道を行事祭の法有、 此邑々の名まで其頃神ならせたまうにより神成と名づくとかや、 亦悪神を降伏して陣をとりままう処を神原と名づくと、古きことの葉に云伝ふ、
其後彼の霊像現甚鋪、往来の輩落馬の難なとしきりなレは、 一人の旅僧来りて彼程の尊像直に拝せん事恐レ有と自尺余りの弥勒の像を作り其内に納め奉る故、末世に至り一宮御本地は弥勒菩薩也

「社寺縁起伝説辞典」

一之宮貫前神社(小林宣彦)

 貫前神社の主な縁起としては、『神道集』の「上野国九ヶ所大明神事」と「上野国一宮事」、また『一宮御本地堂縁起』、『上野国一宮御縁起』、『上野国一宮抜鉾大神御縁起』を挙げることができる。
 右の縁起類によれば、抜鉾神は、安閑天皇の御代に来朝し、上野と信濃の国境の笹岡山(=荒船山)に逆鉾を立てて坐したとある。 また或伝として、南天竺の狗留吠国(鳩留米国)から渡ってきたという話も伝える。 狗留吠国には玉芳大臣(玉王大臣、阿育大王)という長者がいた。 玉芳大臣には娘が五人おり、末娘の好美女は無双の美人であった。 狗留吠国の国王(舍衛国の国王とも)から后にと求められたが、玉芳大臣はその求婚を断ったため、国王に攻められ討ち取られてしまう。 好美女は国王を父母の敵とみなし、抜提河という大河に降魔鉾(玖八という鉾とも)を立て、その上に好玩団(香元円)を敷いた。 しかし抜提河は狗留吠国王の知行地であったため、好美女は降魔鉾を引抜き、天甲船(天早船)に乗って笹岡山にやって来たという話である。 鉾を引き抜き腋に挟んで抜提河から飛んできたため抜鉾大明神と書くと伝える。 また連れてきた御供はそれぞれ荒船大明神・鷺大明神・稲含大明神に現れたとする(尾崎祝は荒船大明神の末であるとも)。 さらに、本来、上野国の一宮は赤城大明神であったが、他国からやってきた好美女(=抜鉾大明神)に一宮を譲ったともあり、抜鉾神を外来神として位置付けている。
 「上野国九ヶ所大明神事」と「上野国一宮事」では、本地を弥勒菩薩とするが、『一宮御本地堂縁起』によれば、もともとの本地は多聞天であるとする。 養老年中に兵庫宿禰が東夷征伐の勅命を受けて、上野国に至った或夜、金の甲冑を飫肥、左手に戟、右手に軍配団を持った多聞天があらわれ、「我は多聞天なり。貫前宮は我が分神であり、軍が終ったら一宇を立てて我を安置せよ」と言って軍配を投げ捨てた。 その方角から金色の毘沙門天像を得て、朝敵を打ち破った宿禰は、一宇を立てて像を納めて帰洛した。 その後、一人の旅僧が、毘沙門天像を直に拝することは恐れありとて、自ら弥勒像を作って納めたため、後世には貫前神社の本地は弥勒菩薩とされるようになったとある。 『上野国一宮記録』では、本地仏は弥勒大菩薩であるとし、天長年間、弘法大師の作と伝える。