若一王子神社 長野県大町市大町 旧・県社
現在の祭神 伊弉冉尊・二品王・妹耶姫・若一王子
本地 十一面観音

「日本の神々 神社と聖地 9 美濃・飛騨・信濃」

若一王子神社(幅具義)

 大町の市街地の北方に鎮座し、伊弉冉尊・仁品王・妹耶姫・若一王子の四座を祀っている。 旧暦六月十七日の例大祭を明治維新後は七月十七日に改め、「夏祭」と称して稚児行列・舞台行列・流鏑馬神事などを盛大に行なう。 七月十四・五日の境内社八坂神社の夜祭・昼祭、七月十六・七日の若一王子神社の夜祭・昼祭と連続している。
[中略]
 仁科氏は代々熊野大社を崇拝し、平安期以来の武士たちの例に漏れず、伊勢神宮へ詣でる代わりに熊野三山へ詣でた。 熊野三山にはいずれも諸神とともに若一王子が祀られているが、本地垂迹説では伊勢の祭神天照大神の本地仏が十一面観音であり若一王子ともいうことから、熊野詣でをすれば伊勢詣でと同じ利益に預かれると熊野の御師は喧伝し、これが熊野詣で盛行の重要な一因になったといわれている。 仁科氏が自己の支配地に仁科神明宮と若一王子神社を創祀した背景には、こうした事情があったのであろう。 社名も明治維新までは「若一王子権現」と称し、現在もなお境内に拝殿・本殿と並んで十一面観音を祀る観音堂があり、その前に三重塔が立つというように、権現信仰の姿を色濃く留めている。
 仁科氏の熊野信仰については、もう一つ鎌倉時代初期に特記すべき事件があった。 『長久記』によれば、仁科盛家の子盛遠は、承久三年(1221)の秋成人した男子二人を連れて熊野詣でに出かけたところ、途中で後鳥羽上皇の熊野詣での行列に出会い、二人の男子が上皇の目にとまり、京に召し抱えたいとの上皇の言葉に親子共々従った。 しかしこのことが上皇と対立関係にあった鎌倉幕府の執権北条義時にきこえたため、憤激した義時は仁科氏の管轄する庄園二か所(場所は不詳)を没収し、上皇対鎌倉の関係は悪化して承久の変が起きたという。 その真偽はともかくとして、この記事は仁科氏が熊野三山を崇敬していたことを如実に物語るものであり、それを裏書きするかのように、現在の当社の観音堂には若一王子と別称される銅造十一面観音坐像の御正体(鏡板欠失)が祀ってある。 しかもこれは仁科神明宮の大部分の御正体と同じく鎌倉中期の作とみられている。
[中略]
 観音堂は方三間の宝形造・茅葺の建物で、江戸中期の宝永三年(1706)の造立であり、内陣に同年代造立とみられる入念な作の禅宗様厨子を納め、現在そのなかに前述の鎌倉時代中期の十一面観音御正体が安置されている。 またこの堂の前方、境内入口には三重塔が立つ。 観音堂より五年後の宝永八年に落成したこの塔の初重の四天柱には禅宗様須弥壇がしつらえられ、金剛界大日如来を中心とする五智如来が安置されている。 心柱は初重天井上から相輪部までを一木で通している。