小野照崎神社 東京都台東区下谷2丁目 旧・村社
現在の祭神 小野篁命
本地 薬師如来

「御府内備考続編」巻之二十四

小野照崎明神社(下谷坂本)

勧請之儀は仁寿年中に御座候、 寛永六巳年慶賢法印上野御領地之内年貢地之外慈眼大師より拝領仕、寺宮共建立仕候、 明暦三酉年御縄改之節古来之通除地に御改相済申候、
○本社(土蔵造、方一間半) 幣殿(二間に三間) 拝殿(二間に四間) 向拝(一間、二間)
  神躰(束帯坐像、丈八寸七分)
 略縁起
抑武蔵州豊嶋郡坂本小野照崎大明神は、参議篁卿の真霊を勧請する処なり、 往昔慈覚大師求法のため下野国大慈寺より京師に赴給ふとて千住の駅に止宿す、 其夜奇瑞ありて御丈壱寸三分の薬師如来を彫刻し此忍か岡に安置せんと欲す、 寺に柴の庵有り。禅定坊といふ、 大師不斜悦給ひ此山仏法弘通の霊地たり、 此尊像を安置せよとて彼薬師如来を附属し給ふ、 其頃篁卿は上野州の任にあたりて此忍か岡に(現龍庵之地也)旅館を設けて遊猟の地とす、 故に人呼て上野殿屋形とも(上野といふ此地なり)申侍りぬ、 彼卿任終て帰路に及時、此景地をふかく惜み給ひ老農に語て云、 我朝覲の暇あらは又必来るへし、 此仮館をやふるへからすとて則禅定坊に命して留務せしむ、 然あるに仁寿二年二月篁卿逝去し給ひぬ、 其夜にあたりて上野殿の仮館鳴動する事夥しく光輝山中に赫奕たり、 耆老是を見て火災なりとす。暫時して止ぬ、 時に禅定坊夢見らく、 我在世に来らん事を先に約すといへともはからす身まかりぬ、 故に我霊を此地に止むへしと見て驚覚ぬ、 程なく卿の逝し給ふ事を京師よりつとふ、 依之小野照大明神と崇め奉り彼仮殿を以て神殿とし、則禅定坊を別当とす、 中頃廻国の山臥快然と云もの此神前に通夜せしにいたく悩る事あり、 然あるに夢幻ともなく衣冠正しき人瑠璃の壺より薬一粒を出してこれをあたへ、 衆病悉除身心安楽と唱へ給ふと覚へて忽に身心冷しく成りぬ、 快然奇異のおもひをなして禅定坊に告、 則云く、神霊世に在せしとき伝へ給ふ名法ありと、 それより是を夢想丸と名付、 又衆病悉除の文によりて本地薬師如来なる事を知り、 大師彫刻の尊像を以て本地仏とす、 快然是より此処に止て明神に給仕し奉る(後に是を喜宝院と云、後裔今猶入谷村に有て喜宝院といふ)、 夫より後社頭破壊に及しに、江戸の太郎重長と云へる人武運を祈りしに霊験空しからす、 二たひ領主となる、則建久年中社頭を造営し定朝の彫刻せし護持の薬師如来を寄附す、 爾来星霜推移て寛永年中東叡山開闢の時慈眼大師此忍か岡を卜して弘法の霊場と定め給ふ、 ことし明神を坂本入谷村長左衛門稲荷へ移し奉る(此時迄明神と熊野と三社有、熊野は善養寺境内に安置す、稲荷は坂本新門之内に有、毎年祭礼の砌旅所とす)、 此長左衛門稲荷は元和の頃耕夫長左衛門と云ものに託していはく、我は明神の末社なり、此処鎮座すへしと、 夫より長左衛門いよいよ尊崇す、 誠に明神を遷座なすへき先非となれり、則同年九月十九日遷宮あり、 其夜別当慶賢通夜す、時に神具白蛇と現して社頭へ移し給ふを見しとかや、 是より九月十九日を祭祀と定むる事遷宮の日を以て権輿とす、
[中略]
然あれは本地は医王善逝にして衆病悉除の霊薬を施し、迹は和漢の文教を都鄙に輝し霊を武陽に止て巨益を不朽に残し給ふ、
[中略]
○稲荷社(三間半、九尺)
  正一位長左衛門稲荷大明神
  聖徳太子(立像)
  子安宝珠弁天
[中略]
○祭礼、八月十九日、氏子町之内神輿相渡申候、
[中略]
○別当小野山禅定寺嶺照院 天台宗東叡山末