小野神社 東京都多摩市一之宮1丁目 式内論社(武蔵国多摩郡 小野神社)
武蔵国一宮
旧・郷社
現在の祭神 天下春命・瀬織津比咩命
[配祀] 伊弉諾尊・素盞嗚尊・大己貴大神・瓊々杵尊・彦火火出見尊・倉稲魂命
本地 文殊菩薩

「神道集」巻第三

武蔵六所大明神事

そもそもこの六所とは、一の宮は小野大明神と申す。 本地は文殊なり。 この仏は三世の覚母、九代の祖師なり。

「長弁私案抄」

敬白請於武州惣社六所大明神御宝前書写紺紙金泥大般若経一部六百巻奉社頭施入祈天下安全万民快楽志趣発願文事
[中略]
一宮小野大明神者大聖文殊垂迹也。 三世諸仏成等正覚之智母、釈迦如来成道九代之祖師也。 揮般若了達智剣、截衆生結縛之邪魔、駕奮迅自在獅子、播三世覚母威徳、雖卜別刹於清涼山之雲、獲垂権迹於武州野露。

「新編武蔵風土記稿」巻之九十八
(多摩郡之十)

一ノ宮村

一ノ宮明神社

社地、五十間四方許、社領十五石の内なり、 村の内にあり、 慶安年中御朱印を賜はり、村内にて十五石の社領を御朱印附される、 本社は三間に二間の宮造にて、四辺に瑞籬を構へ、 其前少しへ立て拝殿を建つ、二間に五間半、共に西向なり、 又拝殿をさること八九間許、西に隨身門あり、 二間に三間半、隨身の像は仏師運慶が作なりと云、 前に木の鳥居をたてり、 郡中に一宮・二宮ありて、村名にさへ唱ふれば、此社の古きことは論をまたず、 今に其社地をみるに、もと玉川の河原にして四五百年来の開闢に過ぎざるべく見れば、 是へ移し祀りしは後世のこととこそおもはる、 近郷百草村は山にそひたる地にして、かしこなる寺院松連寺に蔵する、建久四年の銘を刻せし経筒を見に、一宮別当松連寺としるせり、 さればその時代には、松連寺当社の別当職たりしこと分明なり、 よりておもふに、そのかみの社地は今の地より西へよりて、岡山の上などにたちしなるべし、 社伝に云、当社は安寧天皇の御宇鎮座にして、祭神は当国の国造恵多毛比命の祖、天下春命なり、 配祀五座伊弉冊尊・大己貴尊・素盞嗚尊・瓊々杵尊・彦火々出見尊なりと、 今按に是社伝疑はしく覚ゆ、 其をいかにと云に、今の神職と云者後世こゝに移りしものにて、古松連寺の別当職たりしことだに、いひもつたへざるほどなれば、中ころ衰微して、社伝以下皆亡びしは勿論なり、
[中略]
又按に諸国とも一宮・二宮・三宮など号して、国の鎮守たることは常なり、 中にも東海・東山の諸国に祀れるもの多く、大己貴・少彦名の二神なり、 その故はこの二神は草昧の世、早く中国より東辺まで治め玉ひし神なればなり、 その委きことは【神代巻】等に載たれば是には弁じず、 これによれば、配祀せる大己貴神、これもとの祭神なりしならん、
[中略]
古此国三国にわかれしとき、荒川より南にては、当社一宮にして、北は足立郡氷川社知々夫にては大宮、これ皆国の一宮なるべし、 然るに大宝年中初て国守を置れ、今の府中を定められしとき当社はおとろへたるなるねけれども、もとより国魂の社なりにより、 府に近ければこれを一宮と号し、その余の二社は大宮と号して、唱をわかれたれしなるべき、 今府中惣社六所の祭にも、当社の神輿を出すこと、かたがたゆへあるべきことなり、
[中略]
本地堂 随身門を入て左の方にあり、二間に九尺、文殊菩薩の獅子にまたがりたる長六寸許なる木像を安置す、 この本地仏あるにても、昔別当寺も有し事明らけし、
末社 小社二宇 本地堂の並にあり

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

武蔵国

Ⅰ-1 一宮

1 小野神社。 14世紀成立の『神道集』による。 ただし、『大日本国一宮記』などは、足立郡の氷川神社とする。
5 中世における祭神は小野大明神。 本地仏は文殊菩薩(神道集)。 近世の境内には本地堂が設けられ、文殊菩薩像が安置されていた(新編武蔵風土記稿)。 この文殊菩薩像は、明治の神仏分離の際に近在する真明寺に移され現存する。
6 中世における本寺・別当寺の存在は不明