御嶽神社 長野県木曽郡木曽町三岳 旧・県社
現在の祭神
本社少彦名命
若宮大己貴命
本地
御嶽権現大日如来
本社大菩薩阿弥陀如来
安気大菩薩聖観音

生駒勘七「御嶽の歴史」

御嶽の祭神と四門の鳥居

 御嶽信仰の特徴のひとつとして主神座王権現のほかに多くの神々の習合していることをあげることができるが、このことは御嶽信仰の発達の過程における複雑さを物語っているものといえよう。
[中略]
 山上の祭神について永正四年の奥書のある古祭文中にはつぎのように記されている。
 王御嶽登山社礼伝祝詞巻
王御嶽有三十八社、王権現・日之権現・士祖権現・八皇子・栗伽羅・金剛童子・湯之権現・青木之御前・大江之御前・飯之老翁・白川・安気大菩薩・岩戸・大宮・小宮・牧之尾大明神之広前仁慎而敬白(前後略)
 御嶽山上座王六社尊号沙汰之伝
 王権現 大己貴命 神鏡御正体 五面絶頂岩座
 日権現 少彦名命 神鏡御正体 七面西絶頂岩屋座
 八王子 国狭槌命 王権現北大石二座
 栗伽羅 火須勢理命 同 大岩屋座
 士祖権現 日本武命 同北ヨリ二ノ池ノ辺ナリ
 金剛童子 伊弉諾尊 南表八分ノ大石座
  已上六社此尊号波代々秘而一子相之外他言堅禁止也
 御嶽山座王権現三十八座之沙汰之事
 王権現五座 大己貴命
 日権現七座 少彦名命
 金剛童子一座 伊弉諾尊
 士祖権現一座 日本武命
 栗伽羅一座 火須勢理命
 八皇子一座 国狭槌命
 青木権現一座
 湯之権現一座
 小路之木一座
 埵沢大権現一座
 西之権現一座
 大江御前一座 伊弉冉尊
 飯之老翁二座
 岩戸一座
 大宮二座
 小宮一座
 ノ口高岩一座
 本社一座
 若宮一座
 駒峯二座
 田中社一座
 牧尾大明神一座
 白川一座
 美濃加子母二座
また天正二十年壬辰三月吉辰の奥書のある御嶽山縁起には
かへる年皆すいしょうとあらわれて御嶽三十八所座王権現にて御入候、 権現は少将の事也、 森権現と申はりやうしゆ御せんの御事なり、 三所権現と申は阿古太丸の御事也、 ひりうの宮と申はさかの別当の御事也、 駒ヶ嶽と申は弐人の木こりの御事也、 西の御前と申は乳母月さへ也、 されは座王権現と申は現世にてみろく菩薩也、 今生にては権現也、 後世にては釈迦如来とけんして衆生をさいどうしたもう、 此神を信すへき者は今生にては果報有り、 来世にては成仏と守りたもうふべし(前後略)
とあって、御嶽の神を三十八座としているが、さきにも述べたように、はじめ吉野金峯山の蔵王権現を山頂に勧請し、後御嶽独自の信仰に発展するにつれ、他の神々が勧請され、始めに勧請した座王権現に習合されるに至ったものであろう。
 御嶽縁起は御嶽信仰が独自の信仰形態にまで発展してから後につくられたもので、御嶽を金の御嶽・熊野権現になぞらえ登山儀礼の整うにつれ、吉野・大峯・熊野等の巡拝途上の神々を山中に勧請するようになったものであろう。 三十八の数詞は金峯山に「三十八所の廻廊(云々)」なる語もありまた三十八所大明神・三十八社の牛王等の称もあって本地垂跡説に関係の深い数であることがしられ、若宮・三所権現・青木御前(仰ぎ御前)・金剛童子・西御前(西ののぞき)・飛滝権現・王子・湯之権現・飯之老翁(飯王子)等は熊野三山に関係せる祭神であることが濃厚に感ぜられるのものである。
 これら三十八座のうち、「王権現(五座)」「日権現(七座)」「八王子」「栗伽羅」「士祖権現」「金剛童子」の六社は「御嶽山上座王六社尊号沙汰之伝」に記されているごとく頂上各所に祀られていたものであり、これに駒ヶ峯の二座を加えて頂上には十八座が祀られていたものである。 中腹には「湯之権現」「大江御前」(現在の六合目付近)「西之権現」「青木権現」(扇の森)「飯之老翁(飯の王子・飯森)」二座の六座がまつられその余の岩戸(王滝里宮)大宮二座(上島)小宮(上島)小路之木(上島)野口高岩(野口)埵沢権現(鞍馬の滝現在ダムのため水没)田中社(埵沢)牧尾大明神(牧尾ダムの上の滝であろう)本社(黒沢里宮)若宮(黒沢若宮)美濃加子母二座(拝殿のことと思う)の十三座が山麓に祀られていたのである。
 以上三十八座の神々のうちには、山上より遥拝を行なっているものもみられその全部が鎮座されていたものではなかったもののようである。 吉蘇志略に「又登ること三里にして絶頂に至る二祠あり、王権現と云ひ、日権現と云ふ、其西の峯に三祠あり、倶利加羅と云ひ、八王子と云ひ、士祖権現と云ふ」とあるが「沙汰之伝」によると王権現は五座大己貴命とあり、大己貴命を主神として四座の神が習合されており、日の権現は七座とし少彦名命を主神としているが、天正の縁起に「座王権現と申は現世にてみろく菩薩也、今生にては権現也、後世にては釈迦如来とげんじて」とあるように、座王権現ははじめ王権現として絶頂に祀られていたものであるが、後に大己貴命・少彦名命その他の神々がこれに習合されるに至ったもので、日権現は「日輪者大日如来也、本地者廬舍那仏也」の信仰によって祀られたもので山上の霊気に接し、雲海上にさしのぼる荘厳な御来光を拝するとともに遠く伊勢両宮を遥拝することにはじまり後に西頂上に奉祀されるに至ったものであろう。 士祖権現は一座日本武尊とし二の池付近に祀るとしてあり、御嶽登山次第によると王権現にて遥拝していたもののようであるが、この権現は領主木曽氏をはじめ武士階級の信仰を得るに及んで武神として熱田神宮の祭神日本武尊を山上より遥拝祈誓をこめたことにはじまり後これを山上に勧請し摩利支天に祀るに至ったものであろう。 栗伽羅・八王子その他の神々もまた同様ではじめは山頂よりこれら諸神の遥拝が行なわれその後になって次第に山上に鎮座されるようになったものであろう。

御嶽神社里宮の創祀

 御嶽神社の里宮は嶽麓の黒沢田中に本社(祭神少彦名命)と若宮(祭神大己貴命)があり、王滝上島に里宮(祭神国常立命・少彦名命)があり、ともに御嶽神社と称しているが、江戸時代は黒沢本社は本社(或いは里ノ宮)、若宮は安気大菩薩といい、王滝里宮は王御嶽権現(または岩戸権現)と称していたものである。
 現在黒沢本社は少彦名命を若宮は大己貴命を祭神とし、両社をひとつとして御嶽神社としているが、本社を明治維新までは本社大菩薩、若宮は安気大菩薩と称していたもので、本社には八幡大菩薩(本地阿弥陀如来、脇侍毘沙門天、弁財天)若宮は桶安気大菩薩(本地聖観世音菩薩)を祀っていたもので、中世においては御嶽座王権現三十八社のひとつに数えられていたものであり、明治維新後、頂上の王権現の祭神大己貴命、日の権現の祭神少彦名命をそれぞれ若宮・本社の祭神に配したものである。
[中略]
 若宮は木曽氏の守護神として最も崇敬を受けた社で資料も豊富であるがその創祀については本社同様はっきりしたことはわからない。
 木曽根元集には安気大菩薩としてさきにあげた岐蘇古今沿革志や木曽伝記の鳥居峠伝説とほぼ同様の伝承記事をのせてその創祀を大永年中のこととしているが、若宮には至徳二年(1385)再興の棟札と、鰐口が現存しており、さらにこれより時代は遡るものであることは明らかなところである。
[中略]
(木曽根元集)
一、安気大菩薩一社
是は大永年中木曽弾正義元、信濃勢よ松本・江原・村井にて一戦有之散々打負、漸屋こはら峠迄引取り休息有之候、 六月十三日の夢に白装束の禰宜来り、汝を追散らし候て敵油断する。残党引連不意に押懸候はゞ可得勝利、併臆病気付きたる者共早速すゝむまじ、 明朝小屋の前へ鳥来べし、おはせて早々飛行を平生の夢とおもうふべし、たゝずば神夢とおもひ早く馳参るべし、 我は是飛騨国幕岩の山神なり訳有て黒沢田中の上林に鎮座する、此度勝利を得ば汝の心を安ずる間、彼所に社をたて安気大菩薩と信仰せば弥氏神となりて守るらんと夢を見て、 近習のものにかたり玉ふ所、山鳩二羽来り小屋まへの木にとまる、おわすれどもたゝず、義元行水にて拝し諸人も驚、 早々かけつけ給へばあんの如く敵軍油断せし故存分に勝利を得て夫より田中の上林に宮社建立して安気大菩薩と奉祝、 さて六月十三日祭礼日と極、鏑矢三騎人にて三度つゝ乗、しまひの矢天えはなつ、是神納也、大般若は木曽谷中安全の為也、的はわり板五枚あみて敵の五輪を評する也、 藪原峠を鳥居峠と夫より云
[中略]
 なおさらにこの伝承には「宮社建立して安気大菩薩と奉祝、さて六月十三日祭礼日と極、鏑矢三騎人にて三度つゝ乗、しまひの矢天江はなつ、是神納也、大般若は木曽谷中安全の為也、的はわり板五枚あみて敵の五輪を評する也」とあって御嶽神社の祭礼の行事である流鏑馬神事と大般若経転読の由来を木曽氏の戦勝御礼に発するものとしているが、大般若転読のことは「木曽谷中安全の為也」とあるようにこの戦勝とは関係なく、これより以前の古い御嶽信仰にもとずくもので五穀豊穣を祈り、雨乞・雨止等の祈願をこめる信仰にあったもののようで、この信仰は江戸時代初期の山麓諸村落の間に民間信仰として伝わっていて、享保年間及び宝暦六年の夏、文化十二年等に長雨が降り続いたので雨止の祈願を御嶽の日の権現の雨宝童子(日の権現というのは金胎両部大日如来の神で此の中に五つの神が習合されて雨宝童子というのはそのひとつであって雨止め、雨乞いの神としている)に籠め、大般若経の転読を行なったという伝承が黒沢村に記録として残されている。
 このことは御嶽信仰が水分の信仰にもとずく農耕を支配する神であったものが、木曽氏が御嶽権現を信仰するに至って武運長久のために武尊神を勧請するようになり、武神としての信仰が優先するようになったものとみることができ、御嶽権現の和魂は本社に祀られ、その荒魂が武尊神として活動し随所に示顕して霊験をもたらしついに若宮として黒沢田中に地に奉祀され、その祭礼も領主木曽氏直営のもとに行なわれるようになり、ここに御嶽権現の本社・若宮として格付けされ、木曽惣社として大をなすに至ったもので、黒沢村の祀官であった武居氏が御嶽支配の主導権をにぎるようになった理由もここに由来するものとみるべきであろう。
 安気大菩薩(本地聖観世音菩薩)が如何なる神の本地であるか、安気の語義が不明ではっきりしないが、本社の祭神は八幡大菩薩(本地阿弥陀如来)としており、源氏の氏神である八幡神を勧請していることは明らかなことである。
 恐らく木曽氏が武運長久を御嶽権現に祈祷するときかならずこの二神が示顕し神託を下したものではなかろうか。 しかしてかかる信仰は木曽氏の代々にあり安気大菩薩・八幡大菩薩を御嶽座王権現に習合して、これを木曽氏の守護神として崇敬するようになったものであろう。 なお安気大菩薩も八幡大菩薩であるとする考え方は郡誌のほかに岐蘇古今沿革志の編者も「予此を考ふるに安気大菩薩と祝ひしは元来八幡大菩薩なるべし」といってこれをとりあげている。

御嶽信仰の全国普及

 御嶽講の隆盛につれ信者は益々増加する一方であったが、文政十年関東地方の信者の要望で江戸浅草の山崎屋善吉同新鳥越1丁目の奥屋善蔵、本郷御歩町の三島屋長兵衛、下谷御成街道麹町平川一丁目の尾張屋勝蔵等が世話人となり、御嶽山江戸出開帳を黒沢村神官武居氏に願出た。 よって武居氏は山村氏を経由し尾州藩へ申報してその許可を願った。
[中略]
 しかして安政六年再び出開帳の要望があり、武居氏はまた山村氏を経由して尾州藩へその許可を願い出た。 しかし乍ら先年度に比してその許可は容易に下らず再三両四歎願してようやく翌万延元年正月実現の運びとなり、江戸本所回向院に於て御嶽権現の本地仏大日如来の出開帳が六十日間行なわれることとなった。