大間稲荷神社(天妃権現宮を合祀) 青森県下北郡大間町大間 旧・村社
現在の祭神 倉稲魂命
[合祀] 天妃媽祖大権現・金刀比羅大神・奥津島姫命
本地
天妃権現救世観音

「御領分社堂」一

天妃権現宮

同[田名部御代官所] 同村[大間村]
一 天妃権現宮 社地斗
   右天妃権現神号天妃聖母媽祖大権現、本地救世観音・宗朝現妙霊を護国海上鎮守、唐土には船玉与祝申候由、 右神躰唐土より筑前国太宰府え渡り、夫より水戸御領中ノ湊浦え勧請、中ノ湊より元禄年中に吉田村え勧請之由申候、 当時大破社地斗御座候

藤田明良「於江戸時代東日本天妃信仰的歴史展開」[PDF]

青森県大間町稲荷神社

 本州の最北端であり、鮪や鰒の漁で有名な下北半島の大間に天妃神社があったことは、古くから知られていた。 元禄9年(1696)に名主伊藤五左衛門が海上危難の救済のため大間村に勧請し、同地の修験者が別当として管理した。 明治政府による神仏分離政策と廃仏毀釈の動きによって、明治六年(1882年)に天妃神は稲荷神社に合祀されたという。 [中略] 明治九年に稲荷神社祠官(神主)高木重固がまとめた『天妃大神社録』は、つぎのように記している。
大間浦ニ鎮座マシマシ給フ、 天妃大神社ハ舩魂守護神ニシテ元録(禄)九年大間村長伊藤五右衛門薩州、野間ノ神社ヲ奉還、家ノ氏神ト泰尊崇、春秋二季ノ祭典無怠慢、 然ルニ星霜推遷リ時ナル哉、明治六年五月神社御改正ノ度仏体ノ御調ニテ、稲荷神社へ合祭ノ巌命アリ、 於茲宮殿朽損セシ侭ナリシニ重固祠官ノ命ヲ蒙リ偶マ旧記ニヨリテ大神社ノ社録ヲ求メ得タリ、依テ此ニ筆記ス、 薩州野間ノ神社ハ当今鹿児嶋県社ノ祭典、神威赫々タリ、 尤支那闓国祭祀セザル州郡ナシ、依テハ御祭典怠慢アルベカラザル者也
 ここでは天妃神は船魂守護神として九州薩摩(鹿児島県)の野間神社から勧請されたことになっている。 しかし江戸時代の縁起や記録類は別の由緒を伝えるものが多い。 江戸時代の大間は南部(盛岡)藩に属していた。 宝暦年間(1751~1764)に南部藩が領内の寺社類を調査して書き上げた「御領分社堂」には、次のように記載されている。
同(田名部御代官所)
大間村
一稲荷宮七尺四方こけらふき同光円坊
拝殿二間半五間板ふき
由緒不相知
同同村
一勢至堂九尺四面板ふき
右、同断
一天妃権現宮社地斗
右、天妃権現、神号天妃聖母媽祖大権現、本地救世観音、宗朝現妙霊を護国海上鎮守、唐土には船玉与祝申候由、 右神躰唐土より筑前国太宰府え渡り、夫より水戸御領中ノ湊浦え勧請、中ノ湊より元禄年中に吉田村え勧請之由申候、 当時大破、社地斗御座候、
 これによれば、大間の天妃は「天妃権現」「天妃媽祖大権現」と呼ばれており、本地仏は救世観音であるということになっている。宗(宋)朝に現れた妙霊を護国海上の鎮守とし、中国では船玉(船霊)として祀っていたのが九州の大宰府に伝わり、水戸の中ノ湊(那珂湊)に勧請され、さらに元禄年中に吉田村(大間村の誤りか)に勧請されたとなっている。 この「御領分社堂」編纂のための調査過程でまとめられたと考えられている「田名部輪中修験由緒」(『不動院文書』) には、大間の稲荷神社と天妃神社の別当であった和光院の条項に、次のように書かれている。
大間稲荷別当和光院
初代、由緒不知、享保二年病死。
稲荷大明神・本尊・御長木像、御長木像、八寸作、脇立、木像、日狐大小四大。 本社、二間四方、板葺。 拝殿、二間三間、柾葺。
天妃媽祖権現、本社七尺九尺、柾葺、神体御長七寸木像、脇立天女二像長五寸。 …天妃媽祖権現、当所エ勧請始元禄九年、当村五右衛門卜申者水戸卜申ス湊ヨリ勧請仕。 天妃宮拝殿二間三間、柾葺。
 ここでも大間への勧請について元禄九(1695)年に大間村の五右衛門が水戸の湊から勧請したとあり、江戸時代に天妃神社を管理した修験者は、那珂湊説を唱えていたことがわかる。 [中略] この由緒書には、さらに、つぎのような記載がある。
大宋勅封護国佑民威霊顕応天妃聖母媽祖元君
大明勅封護国庇民妙霊昭応弘仁普済天妃
天妃救世大菩薩、垂迹宋朝現妙霊、今又佑民東海上、瞻依頂体各安寍
天徳呉霊擡多敬賚朱判有之
 この文句は当時、大間の天妃神社に存在した天妃に関する摺物から写したものと思われる。