大宮神社 和歌山県岩出市宮 旧・郷社
現在の祭神 日本武尊
[配祀] 高皇産霊命・神皇産霊命・足産霊命・生魂産命・魂留産命・大宮比売命・事代主命・御食津命
[合祀] 天児屋根命・三筒男命 須佐男命・誉田別命(応神天皇)・八衢姫命・大己貴命・猿田彦命・大国主命・市杵嶋姫命・皇大神・豊受大神・速玉男命
本地
熱田大明神薬師如来
惣社権現仏部(大日如来)
金剛部(金剛薩埵)
蓮華部(不動明王)

「紀伊続風土記」巻之三十(那賀郡第四)

岩出荘 宮村

○熱田明神社 
○総社権現社 
二社境内周八町 禁殺生
 本社一社方一丈 
一社方三間三扉 
神楽殿
  御供所 鐘楼
 末社四社
  衣毘須・大黒天社 正八幡宮
  住吉社 春日社
村中にあり 岩出ノ荘宮村清水大町高塚溝川高瀬西野備前中迫荊本十箇村の産土神なり 社伝にいはく 鳥羽上皇の勅願所覚鑁上人の創建なり 熱田明神は旧より此地に鎮り坐しゝ神ゆゑ岩出ノ里の神といひ伝ふ 康治元年覚鑁上人仏法擁護の為に一千余座の神を此地に勧請して総社権現と号す 金剛部仏部蓮華部を本地仏とす 因りて三部権現とも号す 根来左学頭円満院を神宮寺とし寺社領も寄附ありしに天正の兵火に神祠仏宇宝物等皆煨燼となる 今の社は火災の後修造する所なり 拝殿鐘楼等は南龍公修造といふ 本社の後に玉塚といふ塚あり 大治元年覚鑁上人信貴山に於て毘沙門天より感得の宝珠を蔵む 因りて玉塚といふ 上人感得の玉三顆あり 一顆は根来八角堂不動尊の烏瑟に籠め一顆は鳥羽上皇の御所望に依りて献すといふ 然れは此地に〓るも其三顆の内の一なるへし 神主を熱田氏といふ
  別当円満院(無動山神宮寺)真言宗新義根来蓮華院末
社の境内にあり 本地堂あり

「大和・紀伊 寺院神社大事典」

大宮神社

 紀ノ川北岸近く、国道24号沿いに鎮座する。 祭神は日本武尊・素戔嗚尊ほか。 旧郷社。 岩出町の宮・清水・大町・高塚・溝川・高瀬・西野・備前・中迫・荊本の産土神で、古くは惣社権現社と称した。 享保14年(1729)の岩出組社方指出帳写(藤田家蔵)に記す永禄10年(1567)撰の岩出荘氏宮惣社権現由緒によれば、当社には熱田大明神(本地仏薬師如来)と惣社権現(本地仏金蓮之三権現)が祀られており、熱田大明神は「往古の鎮守」、惣社権現は康治元年(1142)覚鑁が仏法擁護のために一千余社を勧請したものという。 「紀伊国名所図会」によると、熱田大明神は尾張から勧請し、上古は現在地の東の熱田森に鎮座していたのを中古この地に移したといい、旧地には清原明神祠があるという。 神主熱田氏は尾張から勧請の時に従ってきたと伝える。 また「続風土記」は惣社権現社のうち熱田大明神を「旧より此地に鎮り坐しゝ神ゆゑ岩手ノ里の神といひ伝ふ」と記しており、当社は熱田大明神が先に祀られ、のちに惣社権現が勧請されて成立したものと考えられる。
[中略]
【別当寺】  別当円満院は前掲社方指出帳写によれば根来寺末で無動山神宮寺と号し、惣社権現の本地堂(本尊不動明王)があった。

苫米地誠一「覚鑁と神祇」

 ところでかなり時代が下るが、根来寺文書の中に、文禄十(1567)年霜月吉祥日の年記のある、岩手荘の総社権現に関する文書がある。 これは岩手荘のことであるから、弘田荘にある根来寺の鎮守とは言えないが、隣接する荘にあり、同じ大伝法院領であって、荘園の総社であるから、極めて近い関係にある。 ここには覚鑁擁護の神祇について、長承二(1133)年に覚鑁が豊福寺を経歴している時に、二人の老人が忽然と現れ、吾は天照大神と高野明神であり、三会の暁まで上人の仏法を擁護しようと告げたとされ、また『霊瑞縁起』に見られる春日四宮の姫神が慈愛の涙を流して覚鑁の頭を撫でた話、石清水八幡宮参詣の時に、傍らの人が、覚鑁の頭上に宝蓋があり、足下に花筵があって、神殿より老翁が現れて覚鑁を礼拝したとみたという話、鳥羽上皇の熊野御幸に覚鑁が先達となり、熊野証誠殿の前で覚鑁の夢に熊野権現が擁護を約した話等を上げ、それにより覚鑁は、本地部類に約して、三部権現を祀り、大神宮寺と名付けたとする。 そして勧請の日に大明神が白色の浄衣と立烏帽子で宝殿に入りたまい、その後、荘園擁護のために岩出村に祀るように夢に告げたので、(大神宮寺とは別に)岩出村に重ねて三部権現を祀ったとされる。 その三部は
 東方金剛部は本地金剛薩埵=賀茂下上・日吉山王・金峰山・日前宮等。
 中央仏部は本地大日如来=丹生高野両大明神・十二王子・百二十伴。
 西方蓮華部は本地聖無動尊=八幡大菩薩・春日明神・熊野権現・白山等。
とされるが、ここに見られる配当も、他の三部権現の配当と異なっており、また天照大神がどこにも配当されていない、春日明神が蓮華部に当てられているなど、必ずしも納得できるものではない。