大野湊神社 | 石川県金沢市寺中町 | 式内社(加賀国加賀郡 大野湊神社) 旧・県社 |
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現在の祭神 |
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本地 |
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佐那武(大野庄にこれあり)には拝殿と講堂あり。 王子の五所は白早取なり(五所宮なり)。 大宮は毘沙門なり。 内宮は不動なり。 小白山(小河にこれあり)あり。
佐那武白山権現は白山比咩神社九所の小社の一社にて、往古は白山本宮の摂社なりといひ伝たり、 其頃は佐那武白山の衆徒とて社僧多く居たりき、 本地仏は佐那武の観音堂と称し、其地を寺中と呼ひて寺院共多く、今其遺跡を寺中村と称せり、 本地観音の堂宇ありし地をは今観音堂村と呼へり、 其いにしへは佐那武白山の社人・社僧夥多しく此地辺に居たりしかと、 長享以来の国乱に神人・社僧も悉く離散して社殿・堂宇は兵火に罹り、神宝・仏体は僅に取り除け残れるを、邑民共居宅に守護し来りけるを、天正年中漸く世治り天下泰平に属し、邑民僅に小祠草堂を造立して神宝・仏体を納め祭らんと叢祠を旧社地に建築して神体を鎮坐なし奉り、草堂の小宇を建立して本地仏の仏体を安置す、 然るに寺中の村落も次第に人口相増、戸数も弥増、穢障の恐れありとて、寛永十九年に寺中の村中なる白山の叢祠をは佐那武明神の境内へ移し、神宝を遷座なし奉り永世爰に鎮坐相成度との旨邑民共□たり、依て其意にまかせ佐那武明神の境内へ移し神宝遷座なしたり
大野郷は『延喜式』当時は加賀郡に属しており(中世以降は石川郡)、当社が同郷の郡津であった犀川・大野川河口の守護神であったことはその社号からもうかがわれるが、平安末期にはこの社号は消えかわって「佐那武社」の名が見えるようになる。 そしてこのころの当社は加賀馬場白山宮の有力末社となっていた(『白山之記』)。 現在、境内末社として佐那武白山神社を祀るのは、その名残りである。
当社の縁起や由緒書によれば、聖武天皇の神亀四年(727)六月十五日、奥州の住人佐那という者が海中より神体を拾い上げ、大野荘真砂山の竿林の社地(大野湊神社)に奉鎮(合祀)して「佐那武大宮大明神」の社号を得、次いで建長(1249-1256)のころ宮社・神宝などが焼失したため、八町ほど東の離宮の地(現社地)に移ったという。
[中略]
万治二年(1657)の寺中両神主の社殿修理願は中央を神明社、両脇を不動宮・毘沙門宮とし、寛文九年(1669)の社殿破損願も主殿を神明社、両脇を明神御社(佐那武社、祭神猿田彦神)・八幡神社と記している(不動は明神社、毘沙門は八幡社の本地仏であろう)。