太田山神社 北海道久遠郡せたな町大成区太田 旧・村社
現在の祭神 猿田彦大神
本地 観世音菩薩 地蔵菩薩 不動明王

菊池展明「円空と瀬織津姫」

霊場・太田山と円空──北辺の地から

 太田山祭祀の歴史をたどると、町史や由緒案内など一様に、嘉吉年間(1441〜1443)に太田神社が創立され、享徳三年(1454)に武田信広が太田に上陸して「太田大権現」の尊号をおくったという二つの事項からはじめている。 このあと、なぜか、およそ150年の空白期がつづく。
 寛文六年(1666)、円空が太田山へやってきて、諸仏を奉納──。 円空の出現は、太田山の長い空白期、あるいは闇の時間を切り裂くような登場といってよく、150年前の伝説的な歴史・由緒語りとはちがって、円空によって初めて、太田山は「歴史」の水面に顔を出したことになる。 円空が太田山にみた神については、仮説を述べる以上のことはできないが、もう少しつづけてみる。
 円空の次に、太田山祭祀に関連して登場するのが、越前の廻国僧・正光空念である。 これは、宝永元年(1704)のことで、円空のあと38年後となる。
[中略]
 太田山については、空念は「太田嶽両大権現本地地蔵菩薩」、祭礼日は、地蔵尊の縁日を踏まえて「六月二十四日」と定めていた。 「両大権現」とあるように、空念は、太田山には二つの「権現」がいるという認識をもっていたらしく、この祭礼日決定の記載の前には、「太田嶽大権現本地観世音」と「西嶽大権現本地地蔵菩薩」と、二つの「大権現」を記していた。
 太田山の主神は「太田嶽大権現本地観世音」であろうし、「西嶽大権現本地地蔵菩薩」は「副神」であろう。 しかし、空念は、最終的に「太田嶽両大権現本地地蔵菩薩」と決定した。 空念のこの記載の流れは不自然というしかない。 くりかえすが、西嶽大権現は太田嶽大権現に対しては副神とみるべきで、それをあえて副神の「本地」を優先して「太田嶽両大権現本地地蔵菩薩」と定めた空念の真意はどこにあったのだろう。
 空念が太田山へやってくるまでは、太田山は「太田嶽大権現本地観世音」一つであり、そこに、空念の手によって「西嶽大権現本地地蔵菩薩」が新たに加えられたのではないか。 空念は、自らの神仏習合の考えを通して、「太田嶽両大権現本地地蔵菩薩」とし、それまでの「本地観世音」を消去した。
 空念のこの不自然な「本地」に関する記述を、右のように読むことが是とされるなら、太田山に「太田嶽大権現本地観世音」を最初にまつったのは、おそらくは円空と考えてさしつかえない。
 太田神社拝殿の案内は、円空が大日如来を奉納したと記していたが、これは円空が彫った「諸仏」の一つであったとしても、円空が太田山霊神の「御形」(影)を彫像に「移」したとすれば、それは「観世音」が基本だったとおもわれる。
 空念の太田山霊神=地蔵尊という考えは、内浦岳と同じというべきか、太田山にも定着しなかった。 空念が記していた「西嶽」は存在せず、その伝承もまったく採取できない。
[中略]
 それはともかく、空念のあとの太田山の祭祀史をみると、天明四年(1784)には大日如来の伝聞(立松東蒙『東遊記』)、文政元年(1818)には不動三尊の奉納、文政十年(1827)には「一僧が大和国吉野蔵王権現の事蹟を写して銅体(銅製)不動尊を太田神社に併置し、太田大権現として小祠を建立する」(『大成町史』)。 さらに、嘉永元年(1848)には定山によって不動尊がまつられ、太田山の主神は不動尊、大日如来は拝殿の本尊、祭礼日は不動尊の縁日の六月二十八日と決定される(新暦となったが、現在も「六月二十八日」という祭礼日は守られている)。 嘉永三年(1850)には、「この頃」とされるも、江差泊の観音寺から蔵王権現が移されてまつられることになる。
[中略]
 太田山における江戸期の神仏習合史を整理すれば、円空の観世音にはじまり、空念の地蔵尊へ、そして、大日如来と不動尊の混在がつづくも、嘉永元年(1848)、定山によって、太田山の主神は不動尊、大日如来は拝殿の本尊と決定され、不定の神仏習合史に一つの決着がなされたということになる。