大山祇神社 愛媛県今治市大三島町宮浦 式内社(伊予国越智郡 大山積神社〈名神大〉)
伊予国一宮
旧・国幣大社
現在の祭神
大山祇神社大山積神
末社・十七神社大山祇命・中山祇命・麓山祇命・正勝山祇命・䨄山祇命 <諸山積神社>
保食神 <大気神社>
磐裂神 <千鳥神社>
倉稲魂神 <倉柱神社>
啼沢女神 <轟神社>
磐長姫命 <阿奈波神社>
木花開耶姫命 <比目木邑神社>
枉津日神 <宇津神社>
狭田彦神 <御前神社>
闇龗神 <小山神社>
瀬織津姫神 <早瀬神社>
速佐須良姫命 <速津佐神社>
大昼目命(大日孁命) <日知神社>
大直日神 <御子宮神社>
火須勢理神 <火錐神社>
火々出見命 <若稚神社>
市杵嶋姫命 <宮市神社>
本地
大山積大明神大通智勝仏
諸山積大明神薬師如来(阿閦如来)
十六王子大気神社阿閦仏
千鳥神社須弥頂仏
倉柱神社獅子音仏
轟神社獅子相仏
阿奈波神社虚空住仏
比目木邑神社常滅仏
宇津神社帝相仏
御前神社梵相仏
小山神社阿弥陀仏
早瀬神社度一切世間苦悩仏
速津佐神社多摩羅跋栴檀香神通仏
日知神社須弥相仏
御子宮神社雲自在仏
火錐神社雲自在王仏
若稚神社壊一切世間怖畏仏
宮市神社釈迦牟尼仏

「兼邦百首哥抄」

人王七代孝霊天皇の王子の末。 伊与ノ河野也。 本地大通智勝仏也。 依て河野一族通字をなのる也。

「予章記」

玉興
和銅年中に三島大明神・役行者と相共に、豆州より御上洛有り。 而して後、霊亀年中摂津国淀河の岸に御臨幸の時、因縁有るに依て明神 玉興の乗船に乗移り御す。 乃ち此所を三島江と号すこれなり。 社壇御す。 御本地予州と相同じ。 御下国の路次、備中国海上に於いて、明神の御弓の波須を以て湖の中より清水を湧出せしめ給ふ。 それより以来此の海を水島の戸と号す。 末代に至り、彼の水常に湧現すと云々。
正一位大山積大明神と額にこれ銘す。 本地は大通智勝仏。
従一位諸山積大明神と額にこれ銘す。 十六王子内第一皇子(伊豆三島御事。当浦戸に於いて御前と申すなり)。 本地は薬師仏。
御垂跡の始め、明神御約諾して云ふ、汝の国に住せは我もこれ住せむ、我世に有は汝もこれに住せよと云々。 玉興の姓の小千の字を改て御本地の文字に換て越智と号す。 越智の大義なり。
[中略]
此の孝元天皇の御弟を伊予皇子と申す(母は皇后細姫命、磯城県主大目の女なり。孝霊天皇の第二王子。御諱は彦狭島尊)。 此の頃南蛮西戎動きこれを蜂起せしむ間、此の御子当国に下り給ふ。 仍ち西南の藩屏将軍と云ふ。 [中略] 和気姫を娶て三子を産み給ふ。 世間恥とて棚無小船三艘に乗せ、海上に放ち奉る。 此の和気姫は海童の女なり。 三島大明神の御天下以前、和気郡沖島に下り給ふ。 故に母居島と号す。 ここに三子を産給ひ、御子の船を海上に放ち、此の島に住み給ふ。 嫡子の御舟は伊豆国に着す。 彼の所に大宅有り、ここに御生長有り。 即ち大明神と現じ給ふ。 従一位諸山積大明神と申すなり。 御本地は阿閦如来、伊豆国は歓喜国と成べし。 その孫を大宅氏と云ふ。 [中略] 第二の王子の御舟は、中国の吉備山本に付く。 その処に家は三つ有り、養い奉る。 仍ちその子孫を三宅氏と号す。 児島と云は此の孫なり。 第三の王子の御舟は、当国の和気三浦に着き給ふ。 即ち国主崇め奉り、小千の御子と称す。

「三島宮御鎮座本縁」

七十五代崇徳院御宇保延元(乙卯)年、天下卒て暗夜の如く、雲靉靆と為し、人民日月光を見ず三日に及ぶ。 時に虚空に軍陣の音隙無く聞へ、其の響き恰も雷霆の如し。 故に人民大に騒動す。 此の時大山積神託宣に曰く、吾諸大地祇を率ひて、これを掃い除く也。 少く頃ありて快晴す。 これに依り諸人奇異の思ひを為しこれを伝へ聞く。 遠近の貴賤当社へ群集参運ころ数日夥しと云云。 此の事叡聞に達し、藤原忠隆を勅使と為し、当社の本宮を始め末社迄悉く造営之宣旨。 別て神代巻造化を以て人体に教へ給ふ通り、本社に雷神・高龗を加へ、三社を以て本社に崇むべしとの宣旨これ有り。 此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。 外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。 其の外摂社末社の本地仏を斯の如に調へ、御正体と号し、大通智勝仏の左右に掛け並へ、仏供院と号す。 亦は本寺堂と云。 是れ神供寺の初め也云云。

「伊予三嶋縁起」

十六王子因起感通分、窺原其因起。 覆講法華之教主、大通智勝仏之十六王子、遥観実成妙覚、然之法躰三世道同之大士云々、雖然済度利生之大悲厚、我国神明和光之結縁種東土、爰以二八王子出入重玄門之台、交娑婆苦海之塵矣。 夫日本秋津島大中津洲垂跡当初。 天神七代称第六面足尊云々。 爾以降、伊弉諾伊弉冊二主尊生海山云高間原。 天照大神為地主之首。 波瀲哉尊為纔暦十三万六千四十余歳云々。 大和磐余彦帝為人王之始。 橿原国宮作時。 令祭六十六国崇廟。 中与州迫戸浦寄来浪上翁。 出誦法華経。 光明中在十六王子。 時人誤就声聞化城喩品、十六王子之名也。 謂東方阿閦在(第一王子)、須弥頂(第二王子)、獅子音相虚空住常滅帝相梵相阿弥陀度一切栴檀香須弥相雲自在雲自在王世間畏怖釈迦牟尼仏。

「大山祇神社略誌」

第三節 平安時代

第二項 大通智勝仏

 大山積神の本地仏は大通智勝仏であった。 しかし、なぜ大通智勝仏が本地仏となったのか、その経緯は必ずしも明確でない。 大山積神は古くから全国津々浦々にまつられ、国土の守護神として厚い信仰をあつめてきた。 東西南北四方八方を守護すると考えられる大通智勝仏と、十六人の王子の仏徳のために大山積神の本地仏とされたのであろうか。 大通智勝仏と十六王子について仏教大辞典の解説を紹介する。
 大通智勝仏は梵語 mahâbhijñâ-jñānâbhibhū の訳。 [中略] 過去三千塵点劫以前に出現し、法華経を演説せし仏の名。 法華経第三化城喩品に依るに、過去無量無辺不可思議阿僧祇劫に仏あり、大通智勝仏と名づく。 其の仏未だ出家せざりし已前に十六王子あり、父王成道の後、彼の諸王子は之に従って出家して沙弥となり、妙法蓮華経を聞きて信受奉行し、亦自ら各法座に昇りて此の経を広説分別し、一一皆六百万億那由他恒河沙等の衆生を度し、遂に阿耨多羅三藐三菩提を得て今皆十方の国土に出現しつつあることを叙し、即ち其の中の二沙弥は東方に作仏し、一を阿閦と名づけ歓喜国に在り、二を須弥頂と名づく。 東南方の二仏は一を獅子音と名づけ、二を獅子相と名づく。 南方の二仏は一を虚空住と名づけ、二を常滅と名づく。 西南方の二仏は一を帝相と名づけ、二を梵相と名づく。 西方の二仏は一を阿弥陀と名づけ、二を度一切世間苦悩と名づく。 西北方の二仏は一を多摩羅跋栴檀香神通と名づけ、二を須弥相と名づく。 北方の二仏は一を雲自在と名づけ、二を雲自在王と名づく。 東北方の二仏は一を壊一切世間怖畏と名づけ、第十六は我れ釈迦牟尼にして、即ち娑婆国土に於て阿耨多羅三藐三菩提を成ずとなし、且つ諸王子沙弥たりし時、各各教化せし無量の衆生の中には今尚ほ声聞地に住するものあり、我れ常に此の諸人を教化して漸に仏道に入らしむと説けるもの是れなり。 是れ蓋し法華三周説法の中の因縁周説法にして、即ち釈尊を以て過去大通智勝仏の王子なりとし、又霊山会上の聴衆は皆彼の如来の結縁の人なることを明にするとの意なり。 [後略]
 ところで、大山祇神社に大通智勝仏がまつられたのは保延元年(1135)のことで、この秋神宮寺(神供寺、明治以降祖霊社)が建立された。
 七十五代崇徳院御宇保延元乙卯年(中略)供僧妙専勝鑒等進国中社傍一寺建立号神供寺外一宇堂建立大通智勝仏像安置大山積為本地
 仏教がわが国に伝来して六百余年、全国に神仏習合のことがひろがっていたことを考えれば、とりわけて奇異とするにはあたらないが、大通智勝仏の像が安置され、また神供寺の建立がなされるなど、保延元年は大山祇神社の信仰史を考える上できわめて重要な年である。
 この年と前後して河野家の嫡男が「通」字を用いることとなり、河野通清の誕生、命名や通清の父親清が通明と改名した記録も残される。
 また、正安四年(1302)大通智勝仏の十六王子になぞらえた十六柱の神々が一宇にまつられ、十六王子神として県下各地にその信仰がひろまってゆく最初の年ともなるのである。
 神社名祭神名十六王子神 
1大気神社保食神阿閦
2千鳥神社磐裂神須弥頂
3倉柱神社倉稲魂神獅子音東南
4轟神社啼沢女神獅子相
5阿奈波神社磐長姫命虚空住
6比目木邑神社木花開耶姫命常滅
7宇津神社枉津日神帝相西南
8御前神社狭田彦神梵相
9小山神社闇龗神阿弥陀西
10早瀬神社瀬織津姫神度一切世間苦悩
11速津佐神社速佐須良姫命多摩羅跋栴檀香神通西北
12日知神社大昼目命須弥相
13御子宮神社大直日神雲自在
14火錐神社火須勢理神雲自在王
15若稚神社火々出見命壊一切世間怖畏東北
16宮市神社市杵嶋姫命釈迦牟尼

第四項 十六王子神

 四十九代光仁天皇御宇宝亀十年依勅命三島摂社七島中宮造別而諸山積神徳伊豆国加茂郡鎮坐云々(三島宮御鎮座本縁)
 四十九代光仁天皇御宇宝亀十年冬十一月奉勅鎮座于末社十六神七島中其神名如左云々(社記)
 十六神社にまつる神々の創祀について、御鎮座本縁・社記とも宝亀十年(778)としているが、まつられた神々の座数を社記が十六神とするのに対し、御鎮座本縁は摂社を七島に奉斎した事のみ記し、座数をあげてない。
 つぎに、十六王子社の創建年代について御鎮座本縁・社記はつぎのように伝えている。
 九十二代後伏見院御宇正安壬寅年二月廿八日当島浦戸大明神諸山積社第一トシ此外七社鎮祭所之末社十六社本社之境内エ長棟一宇建立夫々構扉所定右従国護御寄進依之云々
 九十二代後伏見院御宇正安四壬寅年春浦戸神社為第一此外鎮祭所于七嶋之末社十六神合十七社為拝所本宮之境内エ長棟一宇建立右従国護御寄進云々
 いずれも正安四年(1302)太祝安俊の時、七島中(御鎮座本縁は七社と記すが前掲宝亀十年の条には七島とある)にまつられていた十六柱(社記に十七社とあるのは十六社に諸山積神社を加えたもので、現在大山祇神社では十七神社という)の神々を本社境内に長棟一宇を建てて鎮祭したとする。
[中略]
 つぎに、十六柱の神々はどういう理由から一宇にまつられたのであろうか。 また、宝亀十年に七島に鎮祭された時からすでに十六柱であったのであろうか。 これらのことを考えるには、伊予三島縁起・十六王子因起感通文を見る必要がある。
 十六王子因起感通分、窺原其因起。 覆講法華之教主 大通智勝仏之十六王子 遥観実成妙覚、然之法躰三世道同之大士云々、雖然済度利生之大悲厚、我国神明和光之結縁種東土、爰以二八王子出入重玄門之台、交娑婆苦海之塵矣。 夫日本秋津島大中津洲垂跡当初。 天神七代称第六面足尊云々。 爾以降、伊弉諾伊弉冊二主尊生海山云高間原。 天照大神為地主之首。 波瀲哉尊為纔暦十三万六千四十余歳云々。 大和磐余彦帝為人王之始。 橿原国宮作時。 令祭六十六国崇廟。 中与州迫戸浦寄来浪上翁。 出誦法華経。 光明中在十六王子。 時人誤就声聞化城喩品、十六王子之名也。
 大山積神の本地仏大通智勝仏には十六人の王子がいて、東西南北四方八方を守護するとある。 神仏習合の時代を迎え大山積神の本地仏が大通智勝仏に定められるとともに、十六王子の信仰もまた同時に広められていったものであろう。
 「大通智勝仏」の項で詳述するが、神仏習合の流れの中で、保延元年(1135)大山祇神社に神供寺が建立され、大通智勝仏の仏像がまつられた。 このころから、いちだんと厚い河野家の信仰も手伝って県下各地の三島神社にも大通智勝仏がまつられ、やがて正安四年(1302)大山祇神社境内に十六王子になぞらえた十六柱の神々を一宇にまつる十六神社の誕生を見たものであろう。

「日本の神々 神社と聖地 2 山陽・四国」

大山祇神社(客野澄博)

 また神仏習合の時代には、「総鎮守」は仏法保護の大地主神の意味と考えられ、当社も仏教の影響を強く受けるようになる。 神供(宮)寺が建てられ(安政年間〔1845-60〕に大改修されたとの記録と遺構が現存する)、そこに大通智勝仏を安置して大山祇神の本地とし、摂・末社にも仏像が配された。

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

伊予国

Ⅰ 一宮

1 大山祇神社。
5 祭神は大山祇神で、大山積神・大山津見神とも記す。 この神は『日本書紀』ではイザナギ・イザナミ2神の子とされ、山の神として信仰を集めた。 一名を「和多志の大神」とも呼んだことが『伊予国風土記逸文』にみえるほか、中世には三島明神・三島大明神と称することが多い。 本地仏は大通智勝仏とされるが、天文12年(1543)の東円坊本尊薬師如来の銘文では三島宮の本地仏を薬師如来としている。
6 神宮寺が存在しており、建長7年(1255)の「伊予国神社仏閣免田注進状案」により、三島宮の封戸田34町余のうち4町2反が神宮寺のものであったことが判明する。 「伊予三島縁起」には、元亨2年(1322)の火災で神宮寺も焼失したことが見える。 当社に勤仕する供僧は24坊に所属していたとされ、このうち8防が正治年中(1199~1201)に別宮大山祇神社の供僧になったと伝える。 現在は大三島に東円坊が、別宮に南光坊が残るにすぎない。