弟橘媛神社 茨城県北茨城市磯原町磯原 旧・村社
現在の祭神 弟橘媛命
[配祀] 龍宮船魂命
本地 大勢至菩薩

菊地章太「民間信仰と仏教の融合─東アジアにおける媽祖崇拝の拡大をたどる─」

 東日本では茨城県に媽祖崇拝の足跡がいくつか残っている。 延宝五年(1677)に曹洞宗の東皐心越が中国から日本に渡来した。 長崎の興福寺に住する黄檗僧の求めに応じたのである。 心越は天和元年(1681)に徳川光圀の招聘を受けて江戸の水戸藩邸に赴いた。 のちに水戸の天徳寺に至るが、それに先立つ元禄三年(1690)に水戸藩の外港である那珂湊の対岸の磯浜(現大洗町)に媽祖権現社が建立された。 同じ年、磯原(現北茨城市)の海岸の小山を天妃山と命名して、天妃社が創設される。 現在、磯原天妃社は社殿を残しており、天明九年(1798)の銘を持つ石造の「天妃山碑」を伝えている。 そこには心越が請来した天妃像を元禄三年に奉じたことが記され、以来「海運を事とする者、その霊庇を蒙ること数えあぐべからず」とある。 天妃山は眼下に太平洋を望み、海上安全を祈願してここに天妃が祀られたことが理解できる。
 天妃信仰を現地で管理してきたのは修験者すなわち民閒の宗教者であった。 天妃社の別当である修験者の家系には「朝日家文書」と呼ばれる資料が伝わる。 文化六年(1806)頃に記された「朝日指峰勧請」には、「龍宮船玉 廿三夜正躰 天妃水魂神社」とある。 さらに祭神である天后聖母神について、「本地は得大勢至菩薩」と記している。
 船玉は船霊あるいは船魂とも綴るが、漁民にとっては最も大切な信仰対象である。 [中略] さらに長崎に来航する唐船には「舟菩薩」と俗称される媽祖娘々が舟神として祀られていたという。 この段階では媽祖は船玉とは呼ばれていない。 しかし江戸時代の終わりの東国の地では、すでに船玉として漁民の信仰対象になっていたのである。
 次に「廿三夜正躰」とあるのは、二十三夜講の祭神のことである。 それが天后聖母神すなわち天妃であるという。 近世の習俗である二十三夜講は月待講とも呼ばれ、陰暦二十三日の真夜中に村人がつどって月の出を待つのである。 その本地仏は勢至菩薩とされた。 そうすると天妃はその垂迹、すなわち化現した姿ということになろう。 天妃山の参道には今も「二十三夜塔」と刻まれた石碑が立っている。
 幕末になると水戸藩で社寺改革が断行された。 明治初年の廃仏毀釈に先駆けており、天保十三年(1842)前後から弾圧が本格化している。 三十年ほど後の記録だが、朝日家文書の中に明治七年(1874)の「株格之儀書上」が伝わる。 そこでは天妃を「弟橘媛の同躰」と見なし、磯原天妃社の社号を笠原神社に変更した次第が記されている。 このとき磯浜の媽祖権現社も弟橘媛神社に改名された。

藤田明良「於江戸時代東日本天妃信仰的歴史展開」[PDF]

茨城県北茨城市磯原天妃山

 JR磯原駅の北にある大北川河口の北岸に小高い山があり、そこに天妃神が祀られている。嘗ては陸地と離れていた小島だったが、この山は現在も「天妃山」と呼んでいる。 江戸時代後期の地元の地誌『松岡地理誌』(文化七(1810)年寺門義周編)には次のような記述がある。
磯浜村・鎮守天妃神堂(二間四方・高一丈五尺)

祭神竜宮船魂神毎年祭日〈正月廿三日、三月廿三日、七月廿六日、九月廿三日〉

神体木像

天妃聖母元君は、大明金華山永福院の住僧心越禅師が延宝五年丁巳正月長崎に入来し、曹洞正伝の禅と徳川光圀が聞いて、天和元年(1681)辛酉に当国に招請したときに、禅師が将来した天妃聖神である。 海船守護のため光圀公が建立し元禄二年(1690)庚午七月二十六日、始めてこの山に安置した。 古は比山に薬師十二神を安置していたが元禄三年以来、今の天妃神を祀るようになった。 常燈を掲げ漁船の目当てとする。 南に続く峯を旗の峯という。 大旗を立て或いは篝火を焼いて又目当てとした。 天明九年(1789)己酉三月、碑を建てる。 京都五山の碩学相国寺大典禅師(顕常)撰にて、宍戸藩主徳川頼求の筆である。 鳥居の額の天妃山は、乾隆五十年(1785)乙巳孟夏に清人呉趨程赤城が書いた。
 これによると磯原の天妃神は②の祝町の天妃神社建立の三か月後の元禄三年(1690)七月二十六日、同じく徳川光圀によってここに祀られたことになる。 またここも常燈や篝火によって燈台の機能を果たしていたことも判る。 十九世紀前半に作製された全国水路図「皇国総海岸図」にも、「天妃神」が描かれている。
 ここに天妃神を祀る以前は、薬師十二神が安置されていたが、これは中世以来の熊野山系修験道と関係の深い神仏である。 祭神が天妃神に変わった後も、神祠や神像の管理は、地元の修験者行蔵院の朝日家が天妃神社別当としておこなっていた。
[中略]
 また文化六年(1806)頃の天妃神社造替志願書では、天妃神の祠を、竜宮の舟玉で二十三夜講(月待講)の御正体である「天妃水魂神社」とし、祭神本体は天仙聖王神と天后聖母神、本地仏は勢至菩薩となっている。 そして、「天妃水魂神は風雨海川すべて水の御主にて常に大海の深底竜宮の域に住んでいて、二十三夜にかぎりて月輪の中に出現し世の請願を成就し、または九曜の中央北辰の座にあらわれ、亦は天乙星の中に現れて世間の苦患を救う」というように本来、海上守護神である天妃が、風雨海川全ての水神と拡大解釈され、さらに、毎月二十三日夜に女性が集って過ごす民間風俗である月待講の神ともいう生誕日から来る解釈もされている。