王子神社 東京都北区王子本町1丁目 旧・郷社
現在の祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大御神・速玉之男命・事解之男命
本地 阿弥陀如来・薬師如来・千手観音

「江戸名所図会」巻之五(玉衡之部)

王子権現社

飛鳥山の北の方、音無川を隔ててあり。
本殿 祭神、伊弉冊尊、左速玉男命、右事解男命。三神鎮座。
社記に曰く、若一王子の社は紀伊国熊野権現を勧請す。 後醍醐天皇の御宇元享年中、豊島何がしの主とかや、新たに祠宇を建てて崇めけるが、風霜ふり、歳月深うして、朝の霧は香を焚くかとあやしみ、 夜の月は灯を挑ぐるに似たり。 霊神は人の敬ふによりてその威をまし、境値は霊神の徳によりてその名を顕す。 つらつらこの神の本を尋ぬれば、伊弉諾・伊弉冊の尊と申す二柱のみこと、 国土をうみ万の物をうめり。 その広大の功徳すでに成りてのち、伊弉冊尊神退ましければ、 紀州熊野の有馬村にをさめまつる。 熊野大神これなり。 この神を祭るには、春は花をもて祭り、鼓うち、笛吹き、旗立てて諷ひ舞ふて祭る。 白河院の御製に、咲き匂ふ花のけしきを見るからに神の心ぞ空にしらるる とよみたまへるは、花しずめのことなるべし。 この神の御子を熊野早玉男とまうす。 その第二を泉津事解男と申す。 延喜の帝の御時、諸国の神社を記されしに、紀伊国牟楼郡熊野早玉の神社とあるはこれなり。 このゆゑに伊弉冊尊・早玉男・事解男、これを熊野三所の権現といひならはせることになりぬ云々。
[中略]
本地堂(本社の左にあり。弥陀・薬師・千手大悲を安置せり)。

「新編武蔵風土記稿」巻之十八
(豊島郡之十)

王子村

王子権現社

渡殿・幣殿・拝殿あり、 縁起云、紀伊国牟婁郡熊野三所を勧請する所にして、祭神は速玉之男、伊弉冊尊、事解之男是なり、其年歴は詳にせされと康平年中八幡太郎義家奥州征伐の時、当山にて金輪仏頂の法を修せしめ、凱旋の日社頭に甲冑奉納云云とあれは、其より以前の勧請なること知へし、
[中略]
神楽殿
護摩堂 本地仏弥陀・薬師・観音の三躯及ひ不動を安し、又弘法大師の像を置、
鐘楼 寛永十五年鋳造の鐘をかく文左の如し、[銘文略]
仁王門 若一王子宮の額をかく、寛永年中仁和寺宮覚深親王の筆也、
供所 智明庵と号す、
[中略]
東照宮 寛永十一年社頭御造営の時勧請し奉と云、御束帯の御像にて日光山大楽院の御画像を模し奉れりと云伝ふ、
末社 天照太神 飛鳥明神 古は飛鳥山にありしを寛永十年こゝに移せり、祭神は事解之男なり、 聖宮 天神 三十番神 山王 関明神 荒神 十二所氷川浅間合社 八幡蔵王白山合社  康家清光合社 豊嶋康家清光の霊を祀れり、康家は豊島三郎と号し、源義家に仕へし太郎近義の子なり、清光は権頭と称し治承の頃の人なり、
別当金輪寺 古義真言宗紀伊国高野山無量寿院末、禅夷山東光院と号す、 京仁和寺の院家光明院を兼帯せり、 相伝ふ康平年中源義家東征の時当所に於て金輪仏頂の法を修せしめ、凱旋の日甲冑を社頭に奉納し、且誅罰せる処の夷賊の魂の冥福を修せられ、迷走を禅楽に獲得せしめられしゆへ、山を禅夷と号し、寺を金輪と称すと云、 古は新義なりしが、慶長十四年僧宥養台命によりて王子両社の別当に補せられしより今の宗に改む、 [中略] 本尊金輪仏頂は行基の作、 又権現の本地仏薬師・阿弥陀・千手観音を客殿に安置す