酒列磯前神社 茨城県ひたちなか市磯崎町 式内社(常陸国那賀郡 酒烈礒前薬師菩薩神社[名神大])
旧・国幣中社
現在の祭神 少彦名命
[配祀] 大己貴命
本地 十一面観音

志田諄一「磯出の祭礼と水戸光圀」

 かつて常陸国那珂郡四十八ヶ村の鎮守の神輿が、酒列磯前神社に神幸した磯出と呼ばれる祭礼がある。
[中略]
 寛文三年(1693)、水戸藩が作成した『鎮守開基帳』には次のようにみえる。
礒崎大神宮草創者 神武天皇御代 (中略) 抑当社之礒崎之主ニ告夢中言、 吾在東土、為済度衆生、自西天此来住年久、本地十一面観世音菩薩也、汝崇神可信仰、我与汝世々有縁故也、 時主夢覚見海辺、巌屋有黄光、礼拝忝敬而、則造仮殿勧請申抽丹梱、供養尊重、 是故閣異儀、主成神主、其已来、貴賤万民莫不頓首、 於此神社在七重宝、神託ニ曰、一者槐、二ニ者三足雉、三者足烏、四ニ者金剛石、五ニ者胎内石、此二石ハ月ニ一度竜神来拝遊、六ニ者向巽在神倉、七ニ者隠御手洗、是号七不思議云々、 昔伝教大師、空海大師、此阿字浦尋来、彼於金剛石修行護摩、 又村松大明神、桓武天皇御宇、勅願村松大明神、 慈覚大師ハ此浦ニ来、阿字光海上ニ見、現九曜即成星、祭村松ニ自作虚空蔵、日高寺是也、 抑於当社ニ、前代者数箇度祭祀雖有之、従中比一紀ニ両度祭祀相勤、四月七日、九月十九日為祭日、捧幣帛如在礼尊、至今莫令懈怠、 殊毎年四月、那珂郡之大小神祇、礒崎大神宮御殿為集会御幸、再拝垂乳根神所、又海中之向阿字石海辺、金剛石、胎内石ニ礼拝、礒汀遊戯畢、
[以下略]
 この記事によると、寛文三年のころ毎年四月に那珂郡の大小の神祇が磯前神社に集会して、阿字石、金剛石、胎内石などを礼拝し磯の水際に磯出したことが知られる。
[中略]
 那珂郡北岸沿いの村々の磯出の祭礼を大きく変改したのは徳川光圀である。 光圀は寺社改革の前提として、寛文三年に「鎮守開基帳」を作成し、寛文六年に一村に一社の鎮守を祀って崇敬することを命令した。 元禄九年(1696)になると本格的な改革を推進し、村の鎮守社から仏教的な要素を追放して鎮守に対する僧侶支配の排除と神主の育成を目指したのである。 そのため酒列磯前神社の磯出の祭礼からも、仏教的な色彩が取り除かれることになったのである。
 さきにみたように、寛文三年ごろの酒列磯前神社を中心とする磯出の祭礼は、きわめて仏教的・土俗的色彩の強いものであった。 那珂郡大小の神祇が酒列磯前神社の社殿に集会し、海中の垂乳根神を再拝し阿字石、金剛石、胎内石に礼拝して「磯の水際で遊び戯れる」というのである。 そのうえ酒列磯前神社は、弘法大師をはじめ村松虚空蔵など天台・真言宗とも結びついていたのである。
 光圀は伝教大師や弘法大師がやってきて護摩を修行した、という護摩壇石を元禄九年十一月、清浄石と改名させている(『加藤寛斎随筆』)。