「霞山之縁起」
抑当社稲荷大明神は、源頼朝公の御時治承四年冬十一月、武蔵国の住人渋谷庄司重国といふ者麻布の郷に狩して、禽獣数多かり取既に霞山にいたる。
諸卒かなたこなたと走りめくりける所、此山の中に大いなるひとつの石窟あり。
近辺のものに是を尋ねけるにいかなる穴といふことをしらす。
往古よりあたりへ近寄る者はかならすあやまちありと申伝ふ。
重国聞てさあらは禽獣のすめる穴ならめ。
何ほとの事やあるへき。
焼うちにせよとて多くの焼草を集む。
時に草を運むものの内壱人俄にふるひわなゝき狂乱し、口はしりてわれ此所にすむこと年久し。
けふおふくの眷属をころし、又爰に来りて此山の守護神を焼うちなはんとす。
汝か災難遁るまし。
永く子孫にたゝり家名滅亡せんこと近きにありと大にのゝしる。
重国驚きて是山神の御告たるへし。
しかしなから凡情疑惑深し。
願はくは神明影向し給ひて現に験を見せ給へと、彼の石窟の前に通夜しいのりけるに、深更におよひ穴の中鳴動し、ひとつの白狐顕れ出天に向て気を吐く。
其上る事三丈はかり、中に十一面観世音忽然と現し給ふ。
[中略]
是によつて其所へ社を建へき旨命せられ、則重国奉行して社頭を造営し、秩父太郎重康か護持し奉る行基の御作御たけ七寸の吒枳尼天の尊像(新田式部大輔義国の御守本尊なり。秩父重康伝へ護持す。則稲荷の御神躰是也)を内陣に安置し奉り霞山稲荷大明神と崇め奉る。
[中略]
其頃鎌倉高の嶽神武寺の住侶義慶の弟子に観明房秀慶といふ僧あり。
重国在鎌倉の節は此僧に交り厚く、よつて今頼朝公へ吹挙し、霞山稲荷の別当職とし坊舍を建立し観明院と号す。
一、霞山奥の院本地十一面観世音御たけ三尺壱寸春日の作、伊予守源頼義公御守本尊なり。
此本地観世音の由来をたつねるに、或時秀慶蕭然として座し居られけるに、白狐顕れ出庭上をめくりて失ける。
其夜の夢に白髪の翁きたりて告ていわく、我は是稲荷神の使者なり。
汝鎌倉に行て江嶋にいたらは必らす生身の仏を拝し奉るへしとあらたに霊夢を蒙り、頓て鎌倉に行江嶋に七日参籠し、既に下向に趣く所、雪の下辺にて壱人の僧にあへり。
秀慶に向ひていわく、我背負奉る尊像は十一面観世音にて源頼義守本尊なり。
故ありてわれ是まて護持し恭敬供養し奉りし処、霞山の秀慶に此尊像を伝へよとの御告あり。
よつて是より彼山へ守護し趣くよし語り侍る。
秀慶是こそ霊夢の瑞験なりと歓喜踊躍し、尊像を守り来て堂舍を草創し霞山稲荷の御本地に安置し奉る。
「御府内備考続編」巻之十六
桜田稲荷社(麻布桜田町)
当社鎮座之儀者、治承五年十一月渋谷庄司重国麻布郷に狩し、諸卒を供して霞ヶ関霞山石窟の前にいたり焼草を集て焼うちにせんことを下知す、
然に中より白狐顕れ出天に向て気を吐上る事三丈斗、其中に十一面観世音忽然と現し給ふを拝し、
其趣有の儘頼朝公え言上に及けれは、自今以後焼うち毒ながし狐殺生は停止せられしとなん、
其所へ社頭を建霞山稲荷大明神と号す、
[中略]
○本社
祭神吒枳尼天(木立像、丈七寸、行基作)
新田式部大輔義国公守り本尊也、秩父太郎伝へ護持し霞山稲荷神体とす、
呑香稲荷大明神(弘法大師感徳の神体、翁の姿稲を荷鎌をもてり)
[中略]
火天尊(画像)
風天尊(同)
右は火災風災為消除、当時之住職亮算代文政元寅年十月紀州家より当山え御納、
[中略]
弁財天(木坐像、丈五寸五分、弘法大師作)
右は江戸弁天百社之内古来より安置
土中出現之宝珠神(男石、廻り五寸二分、高さ一寸、女石、廻り五寸八分、高さ一寸四分)
宝永五戊子年十一月十五日当山真順代信州佐久郡瀬下釆女良広より納、
[中略]
○祭礼定日 二月初午九月二十二日
[中略]
○本地堂(間口三間、奥行二間)
十一面観世音(木立像、丈三尺一寸、春日作)
○神楽堂(間口二間、奥行二間半)
○天満宮社(間口一間、奥行七尺)
天満宮(木坐像)
○地蔵堂(間口七尺、奥行二間)
地蔵尊
[中略]
○別当霞山桜田寺観明院 天台宗東叡山末