狭野神社 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田 旧・県社
旧・宮崎神宮別宮
現在の祭神 神倭伊波礼彦天皇(神武天皇)
[配祀] 吾平津姫命・天津彦火瓊瓊杵尊・木花開耶姫命・彦火火出見尊・豊玉姫命・鸕鷀草葺不合尊・玉依姫命
本地 千手観音

「三国名勝図会」巻之五十六

狭野大権現社[LINK]

蒲牟田村、狭野にあり。 或は佐野と書す。 即此処の地名にて、俗に佐野原といふ。 祭神瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、豊玉姫、玉依姫の六座なる故、霧島六所権現とも号す。 霧島権現六社の一なり。 東掖宮、神武天皇、吾平津媛を祭り、西掖宮、経津主命、武甕槌命を祭り、四所宮、大己貴命一座、伊弉諾尊、菊理姫、伊弉冊尊の三神一座、罔象女一座、大山祇一座を祭る。
狭野の地は、神武天皇降誕の霊蹟なり。 因て当社を創建ありしといふ。 神武降誕の神跡は、旧蹟の部、其條下に詳なり。 当社本宮、瓊々杵尊を奉祀して、第一座とす。 其他の五座は、同殿に祭られしと見えたれば、神武の御時に、其皇曾祖王父たる、瓊々杵尊を崇奉し玉ひしなるべし。 右は天子皇宮に於て、祖宗の神を親祭し玉ふは、所謂共殿同床の義にて、今の俗間、祖先の神位を家内に祀るがごとし。 神武を東宮に祭るは、即此地に降誕の故にて、蓋し後の従祀なり。 霧島権現六社の内、当社を除て、外五社には、神武を別宮に祭れることなきを以て知べし。 社伝には、孝昭天皇の御宇に、当社を創建し玉へりと記しぬ。
社記曰、文暦元年甲午十二月二十八日、霧島山大火。 当社、並に別当寺、焼亡に及ぶ。 於是当社、及び別当寺を、同郡高城邑、東霧島勅詔院に遷す。 慶長十七年、寺社共に旧地に復る。 即ち今の地なり。 後又享保の山火に厄せらる。 其詳なるは、別当神徳院の條に記す。 当社の辰巳二十二町許、狭野方域に上古当社のありし跡あり。 土俗是を権現が洞といふ。
当社は霧島山東北の麓にて、原野の間にあり。 社地林叢森然たり。 例祭二月初酉、九月二十九日、十一月中酉日。 当邑の総鎮守なり。 社司押領司氏、別当を神徳院といふ。
○東掖宮 本社の東、二間半にあり。祭神由緒等前文に出づ。
○西掖宮 本社の西、二間半にあり。祭神前文に記す。
○四所宮 本社の西南、十二間許にあり。祭神前文に見ゆ。
○本地堂 本社の西南、十八間許にあり。本地千手観音大士を安す。

神武天皇降誕の所[LINK]

蒲牟田村、狭野の内、権現洞にあり。 今平地の内、広さ四段許、少し堆き処に竹藪あり。 是皇居の跡なりといふ。 其堆き地のうちに、又方二間許少し高き処あり。 両石地中より出て相並ぶ。 上古霧島山火起りて焚し故、此辺の石は、皆焚焼を歴て、石の色替れるに、此両石は、焼たる色なし。 土人由緒ある霊地なりとて、牛馬を繋かず、此両石相並ぶ地を、神武天皇御降誕の所なりといへり。 蓋神武天皇の皇父、鸕鷀葺不合尊の皇居、即ち此所にて、其両石相並ぶ地は、神武天皇御降誕の時、産舎を建られしならん。 今神幣を立て是を標とす。 此皇居址の左右は水田陸田相接す。 又上古は、狭野権現社、及び神徳院、此所にありしといふ。 是れ此皇居の辺に、神社を建られ、瓊々杵尊等を崇奉あり。 後に神武天皇を、其東掖に奉祀せしと見えたり。 前條狭野社に所述と、併せ考ふべし。 権現洞とは、狭野権現所在の故に、名を得たるならん。 神武天皇は、鸕鷀葺不合尊第四の皇子なり。 此狭野の地に生れ玉へる故に、地名を取て、狭野尊と号し奉れり。

「霧島山狭野大権現御神名附并由緒書帳」

当社本殿
地神自第三代彦彦火瓊瓊杵尊、至鸕鷀草葺不合尊陰陽之六神也
脇宮両社
左 神武天皇也、(古記又云白山権現、亦云神武天皇、又云囘禄退転失旧記不詳云々)
右 経津主神(是号春日大明神) 武甕槌命(是号諏訪大明神)
両神鎮座亦号護法社也、(古云 乙若両護法、蓋尊像威猛故誤矣、乙若形相順人相者也)
善神王両社
此外山王水天社等
御本地堂千手観世音菩薩