瀬戸神社 神奈川県横浜市金沢区瀬戸 旧・郷社
現在の祭神 大山祇命
[配祀] 須佐之男命・菅原道真
[合祀] 伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉男命 <熊野社>・倉稲魂命 <稲荷社>・天照皇大神 <伊勢社>・猿田彦命 <山王社>・味耜高彦根命 <日光社>・建御名方命 <諏訪社>・木花咲耶姫命 <浅間社>・菊理姫命 <白山社>・徳川家康 <東照宮>
本地 大通智勝仏 薬師如来

「江戸名所図会」巻之二(天璇之部)

瀬戸明神社

瀬戸橋より一町ばかり西の方、道より右側にあり。 祭神大山祇命一座なり。 神主千葉氏奉祀す。 社伝に云く、当社は右大将頼朝公、治承四年四月八日豆州三島の御神を勧請したまふとなり。 『鎌倉年中行事』には、「四月八日、瀬戸三島大明神臨時の祭礼」とあり。 あるいはいふ、往古、この神この地へ飛び来りたまふとも(土人伝へいふ、いま、金竜院の庭中飛石と称するものの上に止まりたまふとなり)。
[中略]
薬師堂(本社の右にあり。土人、放下僧薬師と称す)。
[中略]
『鎌倉紀行』
 迫門の明神にまうでけるに、「これは三島の大明神、本地は大通智勝仏、伊豆と御一体なり」と神職こたへられける。

「新編武蔵風土記稿」巻之七十四
(久良岐郡之二)

社家分村 寺分村 平分村

瀬戸明神社

(社地社領百石の内) 小名瀬戸にあり、 鎌倉街道の北側にて江戸の方より瀬戸橋を越て右にあり、 本社二間半に三間、 幣殿三間に九尺、 拝殿三間に二間、南向、 前に石の鳥居あり、 正一位大山積神宮の八字を篇す、裏面に延慶四年四月二十六日戊辰沙弥寂尹と記す、 神体幣束のみにて前立に束帯の坐像を置、 社伝に治承四年四月八日将軍頼朝豆州三嶋明神を勧請すといへり、 されど【東鑑】に據に頼朝鎌倉に入りしは治承四年十月六日の事にて、四月の頃は未だ豆州北條の館にありし時かれば、当社を勧請すべき由なし、 或云年月は詳ならざれど頼朝豆州三島の神を一社勧請せんとて、神名を札に録して海中に投じ、其漂着の地に鎮座せんと祈誓ありしが当所へ着岸したりしゆへ、そのまゝ造立すと、 又【鎌倉志】に或人の説として往古此神此地へ飛来り給ふ、 今の金龍院の飛石の上に止まると云、 例祭毎年四月十一月中の酉日、 神輿を琵琶嶋の弁天社まで渡し、神主衣冠にて倶奉す、
[中略]
薬師堂 同辺にあり、二間四方、 本尊薬師は立像にて長三尺許、 土人ほうか僧の薬師と呼ぶ、由来詳ならず、
[中略]
神主千葉司胤香 神祇伯白川家の配下なり、 古くより唯一神道なりといへと、金沢称名寺に蔵する源持氏の文書に、瀬戸社領に於て彼寺僧本地護摩を修せし由を載せ、 又社内に蔵する棟札にも住持と記し、且境内鐘楼銘僧普川など彫り、 又六浦嶺松寺は司の先祖豊前某が開基など伝ふる類、 古くは唯一にあらざりしことしらる、 今も社地に薬師堂あり

「瀬戸神社 —海の守護神—」

◎三島明神修正会表白【称名寺聖教399函1号】
 瀬戸明神の正月の儀式「修正会」で読み上げられた神仏に捧げる文章。 三島明神の本地仏である薬師如来(医王善逝)を讃え、牛玉宝印の意味を説く。 「聖朝の泰平、殊には関東(将軍家)の加護を蒙って」という文言は鎌倉時代のもの。 瀬戸明神が幕府の祈願所となっていたことを窺わせる。 〔翻刻①〕

資料翻刻

①三島修正会表白 【称名寺聖教399函01】
(前欠)
服者常安楽ナレハ身心長遠ニ持タマフヘキモノナリケリ
   謹奉祈
勧請 <次置如意取香呂>
敬礼十方三世仏  医王善逝両足尊  八万十二諸聖教  恒沙塵数諸聖教  還念本誓来影向
次六種
供養浄陀羅尼一切誦 
敬礼常住三宝
敬礼一切三宝  我今帰依  三嶋明神  今日所献  香花燈明  種々供具  三業礼拝  種々荘厳  三輪清浄  恭敬供養  大慈大悲  哀愍納受  願於生々  以一切種  浄妙倶具  供養無量  無辺三宝  自他同証  無上菩提 <了>
③神明納受法花事 【称名寺聖教330函87】
奉思明神之本地ヲ何計カ弥法花ノ法施ヲハ歓喜悦与シ御ラムト覚候其故者
如与州本社者大通智勝仏之垂迹十六王子圍繞給フ
[中略]
 三嶋大明神御本地事
勘見古記候ヘハ人王五十三代淳和天皇ノ御宇天長七年<庚/申>七月八日信州水内郡中条郷竹葉村有僧名曰法衆夢想告曰ク
霊異高官人来テ言ク我是伊豆ノ国ノ鎮守三嶋大明神也本地ハ薬師如来后妃ハ十一面第三王子地蔵也
……
自是当社本地ヲ三尊ニハ以薬師ヲ為中尊以地蔵観音ヲ為脇士ト……
⑦足利持氏書状 【金沢文庫文書五六六六(二九八)】
於瀬戸社頭、本地護摩
数日被修巻数給候、目出候、
尚以於寺家可被致祈祷
精誠候、恐々謹言