| 志疑神社 |
大阪府藤井寺市大井3丁目 |
式内社(河内国志紀郡 志疑神社) 旧・村社 |
「藤井寺市史」第十巻[下] (史料編 8 下)
貞享三年(1686)蓬生館主人白雲峯が撰した縁起文によれば、寺がいつのころか焼失したままになっていたが、幸い行基作とされる本尊の薬師如来と脇士の釈迦如来、阿弥陀如来の三尊だけは残っていたので、香積山常薬寺奥坊と名づけた一寺を復興したものと云う。
薬師堂正面に掛かる額銘には「当堂再興施主摂州大坂安土町住青木玄栄為現当堂安楽也延宝六戊午歳七月十二日」とあり、青木玄栄を大坂住としている。
延宝七年(1678)開版の『河内鑑名所記』に大井常楽寺として、「堂の本尊薬師如来〈御たけ四尺〉行基菩薩の御作。西の脇立阿弥陀、東の脇立釈迦〈共ニ同作〉鎮守牛頭天王社在」と記し、常楽寺の絵図を掲げている。
この絵図によると、境内の奥に薬師堂が建ち、その右手後方に草葺の奥院があり、右手手前に牛頭天王社が配置されている。
現在奥院はないが、薬師堂と牛頭天王社(志疑神社)はその位置を占めている。
志疑神社(牛頭天王社)は「延喜式」神名帳に志紀郡一四座のうちに載る「志疑神社」に比定される神社であり、常楽寺はその宮寺であった。
常楽寺の創建については不明であるが、発掘調査でこの附近から七世紀代から平安時代にかけての瓦が出土することから、地名を取って大井廃寺と称され、志疑神社との関係から、志紀首の氏寺として創建されたものではないかと推定されている。
またこの附近が旧志紀郡井於郷にあたると考えられ、出土瓦に「囲」・「井」と読める線刻文字瓦が出土していることにより、推古朝に高勾麗の僧恵灌が創建したと伝える「井上寺」の可能性も考えられている。
本尊の薬師如来をはじめ、釈迦如来、阿弥陀如来の坐像は平安時代後期の作である(「仏像」藤井寺市文化財第十二号)。
元禄五年(1692)の寺社改帳(誓願寺文書)によると、元禄頃には往古は六坊を有していたとの伝承があったことからみても、相当の大寺であったことをしのばせる。
元禄五年の寺社改帳は市史第六巻史料編四中[LINK]に採録されているが、当寺関係部分には次の如くある。
一 牛頭天王 当村往古ゟ氏神 一社
社軒〈内陣六尺四面宮高サ壱間壱尺〉瓦葺御拝〈入弐尺五寸平六尺〉
籬門〈弐間高サ六尺七寸〉 〈三方ハ満縁壱尺三寸〉
敷地〈四間半四方此坪数弐拾坪弐間半〉
天王本地
一 薬師堂 一宇
脇士釈迦 御長弐尺九寸
中尊薬師 御長三尺六寸〈三尊共座像ニテ行基菩薩作〉
脇士弥陀 御長弐尺九寸
堂軒〈三間四面高サ弐間半〉 瓦葺 御拝〈入四尺平九尺四寸〉
外ニ三方ハ半間ノ庇壱間ノ後外屋
右弐ヶ所境内同所ニテ御座候