下立松原神社 千葉県南房総市千倉町牧田 式内論社(安房国朝夷郡 下立松原神社)
現在の祭神
下立松原神社天日鷲命
[配祀] 木花開耶姫命 <浅間神社>
[配祀] 月夜見命 <駒形神社>
末社・御霊白幡神社源頼義・八幡太郎義家
本地
下立松原神社大日如来
末社・御霊白幡大明神薬師如来

たてやまフィールドミュージアム[LINK]より

牧田下立松原神社<千倉>[LINK]

牧田・下立松原神社の概要

 南房総市千倉町牧田にあります。 同町の白子から白間津にかけて幅約300m、長さ約6kmにわたり幾段もの海岸段丘が続いています。 海抜30m以下の段丘は縄文期以降に形成されたものと考えられていて、明応7年(1498年)、元禄16年(1703年)の大地震の際にも大きく隆起したことが知られています。 下立松原神社は牧田の段丘上海抜約30mのところにあり、昔は一面の松原であったと言われています。 神社の北東約 250mにある社山の北麓にある垂迹宮跡が元社地とされ、江戸時代末期までは垂迹さまと呼ばれ尊崇されていました。 社記などの伝承によると、神武天皇即位の辛酉年、天富命に従って安房にやってきた阿波忌部の子孫美努射持命が祖神天日鷲命を祀ったのが始まりとされ、延喜式(927年完成)の神名帳に記された安房国六社のうち小四社のひとつにあたる古い神社です。 源頼朝が石橋山の合戦に敗れ安房に逃れてきた時、豪族丸五郎の案内で戦勝祈願をしたとされ、その折敗戦の身をはばかり鳥居をさけて脇から入ろうとしたところ、氏子達が鳥居を取り除き招き入れたとされることから、以来鳥居はつくられることなく、鳥居のない神社となりました。 また、鎌倉で武士の政権をつくった頼朝は、元暦2年(1185年)に乳兄弟である安房の豪族安西三郎景益に命じて源氏の祖源頼義・義家父子の霊を祀る御霊白幡大明神の廟堂を建てたとされ、それが本殿の左方に鎮座しています。両社殿は関東大震災後に修復されたものですが、本殿前には樹齢数百年を数える杉の御神木をはじめ楠・槇・タブなどの巨木が林立し、頼朝の大般若経を埋めたとされる経塚もあります。 かつて祭礼は9月29日・30日で、近隣17か村の氏子たちによって前日の大祓祭・湯神事、例祭の神楽・御輿渡御・流鏑馬・競馬・相撲なども奉納され、1月15日には麻・木綿祭、11月25日から10日間は御狩神事が行われていました。現在は10月10日に祭礼が行われます。

(4)本殿

 本殿前の左右の大杉は、しめ縄を張った御神木である。 拝殿はなく、本殿とその覆屋(外屋)があるのみ。 本殿の彫刻は、江戸時代から5代にわたって活躍した彫刻師一門で、名人といわれた長狭郡の初代武志 伊八郎信由(1751〜1824年)である。 主祭神は天日鷲命、副祭神は言筺比売命(后神)。 そのほかに、駒形神社(祭神は月夜見命)・浅間神社(祭神は木花咲耶姫命)・垂迹神社(本地仏・大日如来)の3社(3神)を明治41年(1908年)に合祀している。

(7)御霊白幡大明神

 社伝によると、頼朝が元暦2年(1185年)に安西三郎景益に命じて、源氏の祖源頼義と八幡太郎義家父子の霊を祀るために創建し、朝夷郡の総鎮守としたという。  また、頼朝は文治年間(1185年〜1190年)に安西氏を使いとして頼義・義家の木像、薬師如来像、自ら写経したという大般若経600巻を奉納したと伝えている。 社殿には伊八の彫刻が施されている。

(11)垂迹宮跡

 社山の北麓にあり下立松原神社の元社地とされるところ。 現在も垂迹宮跡とされる場所に石宮が建てられている。 垂迹とは仏が人々を救済するため神の姿となって現れるという思想で、10世紀頃から盛んになった。 もとの仏を本地仏といい、当社に垂迹した本地仏は大日如来とされている。

(12) 薬師堂

 御霊大明神の本地仏である薬師如来像が祀られていた。 もと御霊白幡神社の右隣にあったが、神仏分離令により社山山頂に移され、のち建物は大貫の小松寺に移築された。 現在も厨子と覆屋(鞘堂)が残っているが、薬師如来像はその後禰宜宅に移され、現在は牧田地蔵堂に安置されている。

(13)牧田地蔵堂

 神社の北約150mの地にある。 昭和63年(1988年)の再建時に、禰宜(神官)宅から、薬師堂にあった薬師如来像や日光・月光菩薩像、十二神将像が移され安置されている。 十二神将像には明和8年(1771年)の銘がある。