新羅善神堂 | 滋賀県大津市園城寺町 | 長等山園城寺(天台寺門宗総本山)の鎮守社 |
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現在の祭神 |
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本地 |
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本寺三宝の事
胎蔵界を表するは立印曼陀羅なり、 まづ胎蔵を表する事は、胎蔵は大海に建立す、三井寺また湖水の上に建立され、その義相同じきなり、 また胎蔵四菩薩御影向の地なり、三尾(普賢菩薩)新羅(文殊菩薩)護法(観音)金堂(弥勒)これまた胎蔵界に付するなり、
一、新羅明神の御事
東 般若菩薩(南向 文殊)
西 宿王菩薩(南向 普賢)
西 火御子 (東向 十一面)
一、火御子明神の事
この神は、延暦寺の南郊園城寺の北野に地を卜して、無始無終の神なり、清和の御宇、この処を新羅権現に譲り、貴賤を慈愍され、法侶に愛憐を幡れ、内証は三十三身の能化、六道済度の薩埵、十一面観世音なり
太神東渡
新羅太神は、伊弉諾・伊弉冊の神の子、素戔嗚の尊也、 一時父母二神、尊をして根の国に往かしむ、 尊勅を蒙り、乃ち天に上り日の神と相見へてのち其の子五十猛を師いて新羅の国に降り到り、曽尸茂梨の処に居す、 爾来年を経ること久し、 吾が文徳天皇の御宇仁寿天安の間、智証大師大唐国に入り尋師請益す、 暑寒数廻功業己でに成て大中(唐の第十六宣帝の年号)十二年六月八日、海に泛びて東帰す、 同十八日酉の刻、一の素髪の翁船中に現じ大師に告げて言く 「我は是、新羅国の神なり我れ将に師の教法を護り慈氏下生の日に至らしめんとす」 と言い已て見えず、 同二十二日帰帆し肥前国大宰府に到着す、 海上神自から呼んで新羅国の神なりと言う、 いま因て新羅太明神と号するのみ、
一説にいはく往昔素戔嗚の尊、誓て海中に入り沙竭羅竜王第三の子と為り海中の異類を化す、 是れより化を弘め震旦国に出現し嵩山神と為る、名けて朱山王と曰ふ、又崧嶽と号す、 その外、泰嶽天台等の名山霊区に現して広く群生を利す、霊応冥祐遍く四表に蒙むるなり、 吾が仁寿天安の頃、智証大師唐の地に遊学す、 其の国大中九年、大師往きて嵩山に登り朱山王の廟に詣る、 已でに到るの時、天、卒然として雲を起し大雨急りに至る、 暴風樹を抜き渓水逆しまに流る、電光眼を奪て飛揚し迅雷頂を払て鳴奔す、山谷晦冥して左右前後を知ることなし、 晦冥の中化し出る者あり、人頭蛇身その相甚だ怖畏しつべし、忿怒踟扈して大いに呼んでいはく 「汝僧、未だ有漏の穢身を易えずして今我が前に至る、その遇免難し」 叫喚の声、地を転じて河岳に震動す、奇怪言うべからず、 大師此の大異に逢て心神未だ曽って驚動せずに、唯だ神威の殊勝なることを観じて坐す、 頃あって、雨息む風斂まり山上稍や静かなり、 時に件の怒鬼先の異形を改め粛々として師の前に在り、 師,仰いで之を視れば首に千秋の霜を戴き、面に五徳の波を掲ぐ、左の手に錫杖を執り、右の手に黄巻を持つ、 即ち微妙の音声を出して告て言く 「我れ昔は無戯論如来と号して五百塵点劫を送り、今文殊師利菩薩と現じて此の処に在り、両儀剖れて来から青丘(韓地)、赤土(倭国)に垂迹し国家を利することは計り無し、今復まさに東に渡り師の教法を衛護し法をして久く世を往せ令めんとす」と、 語り已りて形隠くるなり、 大師、喜躍の至りに堪えず、念誦して拝礼して時を移して去る、 その後求法の事おわりて、十二年夏六月八日、国商季延孝が船に乗して帰朝す、 同十八日酉の刻、素髪の翁海上に現じ告て言く 「我は是、新羅国の神なり」云々(己上前説に同じ)、
造祠安像
貞観二年庚辰、春二月二十二日大師、勅を奉て新羅神の祠を三井の北野に造立す、 門人円敏、康済、増命等、相い共に来てこれを扶く、 その営作や瑞殿・瑞籬、良木を富まし彫刻・丹青人工を極わむ、 祠成て大師、神像を手刻し宮中に安置す、 其の像や量を帝の躬に準ず、是れ即ち、宝祚を祝すとなり、 又一の小像を納む、是れまた大師の作る所なり、 唐の大中九年大師、嵩嶽神の廟に詣ず、時に神、身を現じ大師に見ゆ(現身の相具に前に見ゆ)、 大師感喜の余り深く真容を心に存し念誦、拝礼し時を移して去る、 去るに及んで神坐の処を顧みれば金銅の鈴杵一具並に尺余の香木一枚あり、 大師自ら是れ神の賜う所なることを知て摭い得て退く、 既にして青龍寺に往き浄室に斎居すること限るに一七箇日夜を以てし件の香木を採て先に見る所の嵩神の像を刻む、 功おわるの日に当りて空中に声ありて言く 「我現身を以て、我を入れよ、我入ん」と、 神の験是れ新たなるを以て、大師神像を此の土に将来す、 今、造る所の新羅神の像は是れ此の像を写し刻むのみ、 或る説にいわく、大師新羅神の像を作たる時、将来の嵩神の小像を以て今の像の中心に蔵む云云、
本地正説
太神本地の身を立るに就て、即ち衆説あり、いわく文殊、いわく釈迦、いわく不動、いわく尊星王、いわく浄名居士なり、 なかんづく正説を存せば文殊大士なり、 ゆえんは何となれば大師在唐の頃、往きて嵩嶽神の廟に詣ず、 時に神告げて言く 「我れ、昔は無戯論如来と号して五百塵点劫を送る、今文殊師利菩薩と現じて此の地に垂迹す、」(前に見る)、 此の神語あるを以ての故に、今本地を定めて文殊大士と為すのみ、
[中略]
補にいわく、衆説ありとは其の説、大神記並に十巻書に出す、左のごとし、
いわく文殊とは伝のごとし、
いわく釈迦とは大師唐の青龍寺に在まして嵩嶽神の像を刻む、功おわりの日に当て空中声ありて言く 「我現身を以て、我を入れよ、我入ん」(舎利礼文)推して以て立つ、
[中略]
いわく不動とは韓国において当神を祭るに必ず一千口の剣を進献す、本朝もまた然りなり(明尊大僧正始めて当神の祭礼を行うに一千口の剣を献す、よって今本朝も然りというなり)、 剣はこれ不動明王の三昧耶形なり、因りて以て定む、
[中略]
いわく尊星王とは大師、青龍寺の法全阿闍梨に従てこの尊の秘法を受く、 この方法は大総持門の最秘安国利民の要法なり、 太神の東渡偏に此の秘法を守護せんがためのみ、仍て推して以て立つ、 又天慶三年明達供奉し平将門を伏するの時、一紙の願文を新羅神に捧ぐ、 その辞にいわく、「七百大劫鎮護国家の御誓願」と云云、 此れは是れ妙見菩薩の誓約なり然れば則ち明達供奉もまた本地尊星王の旨に存するか、是れもまたその証なり、
いわく浄名居士とは往時大師、新羅神の像を作くりおわりて門人にいいていわく 「将来此の像もし没失して神像を新たにせば、まさに浄名居士の形に作るべし」云云、 此の言あるを以て立てて浄名居士となすなり、
上件の如く本地の身を立つるに就て、古徳の異義まちまちに分かる、 然りと雖も多くは是れ義の推にあり、 今の伝の本地文殊説においては、神自ら唱える所なり、また何をか加えん、 仍て古来より之を以て正義とするのみ二童子祠
神殿の左右に二童子の祠を建つ、 北は般若童子南は宿王童子なり、 此の二神は太神に衆の眷神ある、その中の最傑にして常に太神の左右に侍す、 凡そ太神賞罰を行うときは則ち二神に命じて事を行わしむ、 二神の威徳広く諸記の中に見えたり、 般若の本地は文殊大士、宿王の本地は普賢菩薩なり、
補にいわく、神殿の左右北南とは是れ往古の祠に従て言を立つ、 慶祚阿闍梨の再興以前は神祠、東に向て立つ、故に左北右南というのみ、 再興以後は本殿、南に向て立つ、 因て般若の祠東に居し宿王の祠西にます、 今は則り般若宿王二神相殿として本殿の東に居し、火の御子の祠は西に在す、 画図の神像を拝するに神服は唐製、般若は赤い衣宿王は青衣、二神同く紙を束ね笏を把て胡牀に倚て坐すなり火御子祠
神殿南の砌り火の御子の祠を建つ、 此の神は三井北野の地主なり、 貞観元年太神の鎮座の初め即ちその地を以て太神に譲りて退く、 大師因て本殿南の傍に祠を造り像を安し之を斎き祭云云、 本地は十一面観音一伝にいわく不空羂索、補にいわく、神殿南の砌りとは是れもまた往古の祠に従て言うなり、 大阿闍梨再興以後は神祠本殿の西に在り、今また是のごとし、 画図の神像をみるに衣冠倭製、笏を把り牀に坐す
新羅太神社 寺門北院北谷にあり。 五社鎮守のその一なり。 貞観十七年智証大師の勧請。 貞和三年足利尊氏再営。 祭神素戔嗚尊。 清和天皇等身の神像を鎮す。 相殿に般若童子・宿王童子を安ず。 右に火御子祠あり。
[中略]
社伝にいわく、 文徳帝仁寿年中、智証大師入唐し、 天安二年六月八日に、帰朝の海路に趣きたまう。 同月十八日酉の刻、素髪の老翁忽然として海上に現れ、我は新羅明神なり。 高僧の教法を護り、慈尊出世に到るべしと、いい終って見えず。 上洛の時、この神また出現したまう。 大師奏問し、勅を蒙り、初め鴻臚館にとゞめ、その後三井北院に移す。 また本地堂には五字文殊を安置す。 神代の時、素戔嗚尊・五十猛振命と三韓を征し、神霊かの地に止まること神秘あり。