白髭神社 埼玉県入間市寺竹 旧・村社
現在の祭神 清寧天皇・武内宿禰・猿田彦命
本地 十一面観音

「新編武蔵風土記稿」巻之百六十
(入間郡之五)

寺竹村

白髭社

東方三ツ木の境山の中腹にあり、古は境の明神と称せり、 神領十石の御朱印を賜へり、 本地は十一面観音にて慶長十一年と彫たり、径り一尺許なる円き木の中に安ず、銅仏にて長三寸、 当村及び三ツ木・峯三村の鎮守なり、 按に当社の由来記に、人皇五十代桓武天皇八代後胤、金子武蔵守平行長、依勅命武総両州為武士、棟梁下向関東、武州金子邑築城郭云々、 後百余年経て金子十郎家忠、武運長久の為に境明神を鬼門に築き、四百五年の星霜を経て、元亀三年に至るとあり、 元亀三年より四百五年をさかのぼれば、六條天皇御宇仁安三年に至れば、此頃始て勧請せしにや、 是も外に據はなけれど、兎角に古き社なりしなるべし、
末社 三社権現社 愛宕社 浅間社 天神社 稲荷社
別当龍蔵院 三宝院派、江戸鳳閣寺の配下、金明山と号す

「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」

白鬚神社

  入間市寺竹853(寺竹字裏山東一号)

歴史

 当地は霞川流域にあり、古くは金子郷寺竹村と称した。 金子は『古今要覧稿』の姓氏の部金子の項に、物部塩古連公は葛野韓国連の祖であるとあり、霊亀二年高麗人の当地入植にかかわる地名である。 当社の創建もまたこの時であり、高麗人の祀る神がこの地に祀られたものであろう。 社記に、応和二年平行長が当地に下向し、城を築いて金子氏と号した。 下って仁安三年に子孫の金子家忠が城の鬼門にあたる当社を再興したとある。
 社蔵十一面観音の懸仏(27センチメートル)に、元亀三年壬申九月吉日金子越中守家定の銘があり、金子家定が滝山城の北条氏照と対陣の時戦勝を祈って奉納したと伝え、以来、鏡明神として信仰されるという。
[中略]
 一間社流造りの本殿には、桶に入った白鬚明神像(25センチメートル)と白鬚明神と刻んだ銅鏡(6センチメートル)を安置している。