白鳥神社 宮崎県えびの市末永 旧・県社
現在の祭神 日本武尊
本地 聖観音

「三国名勝図会」巻之五十三

六観音池[LINK]

正原村、白鳥山上にあり。 白鳥山は高深の山林なるに、其上にあり。 天然の池なり。 周廻一里余。 深さ測るべからず、或は云二十尋。 碧水湛然として、群峯影を浸す。 霧島山中四十八池の一なり。 白鳥山満足寺記録に、往古性空上人、此池の辺に在て、法華を読誦しけるに、白鳥権現出現す。 因て手自ら六観音の像を彫刻して、白鳥権現出現の処に、仏宇を建て安置せり。 因て六観音池と名く。 亦御池と呼ぶ。 六観音は、霧島山六所権現の本地なり。 今池畔に仏閣あり。 六観音の像を安置す。 即是なりといふ。 祭祀九月二十八日。 此日満足寺住僧、社司数人を率ゐ、白鳥神社へ至り、其神体の鏡を捧て、六観音堂へ至り、祭祀を行ふ。
○六観音堂 前文に見ゆ

白鳥権現社[LINK]

正原村、白鳥山の半腹にあり。 祭神日本武尊。 按に当社縁起に、性空上人、霧島山の霊窟を巡視するに、大池あり。 池側に座して、法華を読誦す。 忽然として老翁来り。 我は是日本武尊なり。 白鳥と化して此峯に住すること久し。 師の読経苦行の徳に感じて、身を現すといへり。 性空即ち此因縁にて、当社を創建し、白鳥権現を勧請し、聖観音を以て本地とす。 満足寺を造営し、護持の精舎とす。
又按ずるに日本武尊の霊魂白鳥に化せしことは【日本書紀】に見えたり。 書紀に、日本武尊東夷を征伐し、還て近江国胆吹山に至り、大蛇の毒に中りて、伊勢国能褒野に薨ず。 時に年三十なり。 天皇是を聞て、昼夜喉咽び泣悲て曰、以後誰人か鴻業を経綸せん耶。 即ち能褒野に葬る。 時に能褒野に白鳥と化し、陵より出て倭国を指して飛ぶ。 群臣因て其棺を開て視れば、衣服のみ空しく留て、屍骨なし。 於是使者を遣して白鳥を追尋るに、倭琴弾原に停る。 仍て其処に於て陵を造る。 白鳥更に飛て、河内国に至り、旧市邑に留る。 故に時人是三陵を号して、白鳥陵といふ。 其後遂に高く翔て天に上る・ 徒に衣冠を葬る云々。 日本武尊の白鳥に化して、此山に栖止すとは、日本武尊、当国に下りて、熊襲を退治し、此地に来り玉へる、因縁に依れりと知るべし。 是を以て飯野及び近郷、白鳥を殺すといふことを禁ず。 拝殿に日本武尊の四字額を掲ぐ。
当社は軍神にて、威霊神験特に著しき故に、上下の崇敬、余社に異にして、松齢公当邑に在し、特に帰仰し玉ひ、軍を出せる度ごとに。此神に祷り、勝利を得ば、報賽せんと御誓願ありし故、寄進の諸品多し。 且当時当社を新建し玉ひ、慶長六年より十年十一月十一日に至て、造営畢れり。 且神領二百石余、粟野の内三門を附与ありしに、其後別当寺住持光厳上人、官に還せりとぞ。 其旧目録、今に別当寺に所蔵せり。 慶長五年正月二十一日、慈眼公又神領百四十三石五斗余を寄進し、永世丁役を免ぜらる。 是日州荘内の役に、公の誓願あるに因てなり。 祭祀二月初酉、六月二十八日、九月二十九日。 寛文七年十二月、住持覚仁記せる縁起に詳なり。 社司黒木氏、別当満足寺なり。
[中略]
○白鳥山金剛乗院満足寺 白鳥神祠より二町許下にあり。 本府大乗院の末にして、真言宗なり。 本尊弥勒菩薩(座像)。 開山性空上人。