照富久稲荷神社 |
埼玉県八潮市八潮1丁目 |
旧・無格社 |
「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」
照富久稲荷神社
八潮市八潮1-22-8(木曽根字西耕地)
歴史
口碑によれば、当社は木曽根新田の守り神として、江戸時代に別当であった正福寺の境内に豊受比売命を祀ったのがその初めとされ、元来は単に「稲荷社」と称していた。
正福寺については、『風土記稿』木曽根村の項に、「本尊薬師を安ず、古は寮なりしが、近来一寺となれりと云」と記載されており、木曽根新田の人々の厚い信仰に支えられて庵から寺になった様子がうかがわれる。
しかし、神仏分離によって正福寺は明治の初めに廃寺になり、更に明治四十二年には政府の合祀政策に従い、無格社であった当社は、木曽根の村社であった氷川神社に合祀され、鳥居や狛犬なども神体の幣束と共に氷川神社に移された。
そのような状況にあっても、氏子の当社に寄せる信仰が厚かったため、神仏分離まで神体とされていた本地仏の千手観音像(全高26センチメートル)は社殿と共にそのまま地元に残され、木曽根新田の人々の手で祭祀が続けられてきた。
太平洋戦争を経、社格が廃され、信教の自由が叫ばれるようになると、当社に寄せる氏子の思いはますます厚くなり、昭和二十九年に至っで積年の悲願であった氷川神社からの復祀を実現し、翌三十年に遷座祭が執行された。
この分祀を機に、当社では社殿の修復、鳥居・眷属像の再建などの整備が図られ、更に正福寺の寺号であった「ショウフク」を冠して社号を照富久稲荷神社と改め、現在に至っている。