袖摺稲荷神社 東京都台東区浅草5丁目  
現在の祭神 素盞嗚尊・稲倉魂命
本地 十一面観音

「御府内備考続編」巻之十四

正一位袖寿里稲荷社(浅草田町一丁目)

○本社(間口壱丈、奥行九尺) 拝殿(二間四方)
  神体(木立像、丈四寸八分)
  右御神体之儀者、昔時甲州高雄山文覚上人源頼朝卿豆州に蟄居砌、御開運之ため彫刻奉るの像なり、後に小田原北条之城中に遷座し、北条家落城之節家臣小西半右衛門と申ものへ度々神令有之、当所え遷座いたし候、
  本地仏十一面観音(金仏立像、丈九寸)
  右者、天正十八年之頃稲荷仮殿造営之節泥中より出現之由申伝候、
○祭礼 年々二月初午日神事、十二座神楽執行、外格別之祭式無之候、
[中略]
○稲荷略縁起、左之通、
抑、当社袖寿里稲荷と申奉は、昔時源頼朝卿伊豆の国に蟄居の時、高雄山文覚上人来りて密計を進む、 頼朝卿の曰、然は軍用専一の品なれは、米穀を守る神を祭りて兵糧に乏しからさる様にはからふへく旨、 依之其時当社の神体を彫刻し豆州北条に一社を建立して奉遷座、 旦夕御誓願を遂られ益繁昌朝日の昇るか如しといへとも、北条家九代にして終りぬ、 後年に至り伊勢新九郎(后に早雲と云、小田原北条の元祖なり)、豆州北条を従ひ、後に小田原に移るの時、神体を彼の城内へ遷座し奉る処、尚奇瑞多し、 諸人是を開運稲荷と号す、 然りといへとも後代に至り秀吉公の命に背き既に落城に及ふ時に至り、小西半右衛門といふもの(末葉今に至て当所に住す)、兼て此稲荷を信心怠らす、 故に夢中に現して曰、我を供奉して隅田の辺に下るへしと云々、斯告給ふ事三度に及ふ、 是に仍て神体と鈴を戸帳の切れに包み、天正十八年庚寅年小西供奉して当所ふさい村に(当時西の木戸の辺なり)、仮殿を立るの砌、泥中より出現の一仏あり、 是を洗ひ清め見るに、十一面観音也、 実に稲荷の本地仏なる事繁栄の瑞相也と本社へ移し奉る、 今の本地仏是也、
[中略]
此社地衣類のおくびに似たる故に衽稲荷と号す、 然るに霊験あらたかにして諸穀の豊饒を司り願望を成就せしめ、一切の災を除く故に、参詣の輩群集なして神籬にそですり通ふによりおのづから其名を称して、当社を袖寿里稲荷と唱へいつしか神号となる事爾、
○別当柳糸山春向寺帝釈院 京都三宝院末