洲崎神社 千葉県館山市洲崎 式内論社(安房国安房郡 后神天比理乃咩命神社〈大 元名洲神〉)
安房国一宮
旧・県社
現在の祭神 天比理乃咩命
[配祀] 天太玉命・天富命
本地 十一面観音

君塚文雄「安房の山岳信仰」

洲ノ崎明神・養老寺と修験道

洲ノ崎明神には宝暦三年(1753)の「洲ノ崎大明神由緒旧記」と、万治二年(1659)別当吉祥院有元によって記された「房州安房郡洲崎大明神縁起」及び成立年代不詳の「洲ノ崎大明神縁起」とがある。 この中の万治縁起によると、元正天皇養老元年(717)九月天比理乃咩命を勧請し奉ったこと、 天平十二年六月(740)行基菩薩がこの明神に参詣して一尺五寸の十一面観音像を彫刻し本地仏とした垂迹明神鎮座の年号に基づく養老寺の名称の由来や役ノ行者の大蛇退治の伝説を記し、 また鎌倉時代には吉祥院・養老寺・岩本坊・中之坊・入之坊等七別当寺をもつ勢いであったこと、 その後に洲崎明神の功徳・利生が記されている。

たてやまフィールドミュージアム[LINK]より

洲崎神社・養老寺[LINK]

洲崎神社と養老寺の概要

 洲崎神社は館山市洲崎字神官免にあります。 東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。 祭神は天比理乃咩命といい、安房開拓神話に出てくる忌部一族の祖神天太玉命の后神です。 平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れたときには当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したことは有名な話。 中世には品川・神奈川など東京湾内の有力な港町にも祀られました。 例祭は8月21日。 中世には修験が7か寺あったといい、江戸時代には社務所の県道寄りに別当寺を務めた吉祥院があって、神社の社領5石を管理していました。

 養老寺は神社に隣接する真言宗寺院で、正式には妙法山観音寺といい、江戸時代まで洲崎神社の社僧を勤めていました。 養老元年(717年)に役行者を開祖として創建されたと伝えられ、本尊は洲崎神社の本地仏である十一面観世音菩薩です。 境内にある石窟と独鈷水は役行者との関係を伝え、曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台としても知られています。 また洲崎に多い頼朝伝説は当寺にも伝えられています。

観音霊場34か所めぐり・その4 朝夷・安房郡コース[LINK]

30番 養老寺

妙法山観音寺(通称:養老寺)
館山市洲崎1331

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「かんのんへ まいりて沖をながむれば のぼりくだりのふねぞ見えける」

 洲崎灯台を過ぎると左手に御手洗山が道際までせまってくる。 中腹には洲崎神社が望め神社のすぐ手前が観音寺で、子育て保育園が併設されている。 ここ洲崎は東京湾の入口で、内房と外房の境目でもある。 当寺の開祖は役行者とされ、養老元年(717年)の創建。 本尊の十一面観世音菩薩は洲崎神社の本地仏であり、神社の社僧も勤めていた。 堂の左奥には役行者の霊力で湧いた独鈷水があり涸れることがないという。 右上の岩屋には役行者の石像が祀られ、里見八犬伝では役行者の化身が伏姫に仁義礼智忠信孝悌の文字が浮かぶ数珠を授ける名場面に登場する。 観音堂の向拝彫刻は後藤義光の師匠・後藤三四郎恒俊の作。 境内にある一本すすきや綿鍋家伝説など、洲崎神社も含めて頼朝伝説が数多く残されている。