須須神社 石川県珠洲市三崎町寺家 式内社(能登国珠洲郡 須須神社)
旧・県社
現在の祭神
高座宮天津彦彦火瓊瓊杵尊
[配祀] 美穂須須見命・建御名方命・保食神・武甕槌命
金分宮木花咲耶姫命
本地
高座宮金剛界大日如来
金分宮不動明王

「明治維新神仏分離史料」下巻

「能登須須神社における神仏分離」[LINK]

当山に於ては神仏習合の事実は夙くより行はれ、高勝寺なる別当寺ありて、古来長日不断の勤行を営めるを以て、他の諸社の例に於て見るが如く、両宮の祭神を以て如来菩薩の垂迹なりと為し、後には高座宮を称して、「高座大菩薩」といひ、又金分高座の両宮を併称して、普通に「須須権現」又は「三崎大権現」とも称するに至れり、
「高座大菩薩」の名は、永正十四年五月の高勝寺衆徒起請文に見えたるを初見とし、「珠々権現」の名は、天正五年十一月の高勝寺衆徒の訴状に見えたるを初見と為す、
両宮の本地仏は、高座宮の御本地は、金剛界の大日如来にして、古来高勝寺の本堂に之を奉安せり、 大永三年五月小倉民部丞吉信の寄進状に、「珠々高座山高勝寺本堂大日之御宝前」と明記したるもの、即ち是れなり、 而して金分宮の御本地は、不動明王なり、 万治三年高勝寺増長坊良恵の記名有る社伝縁起には、左の如く之を記せり、
伝曰、高座宮者本地金剛界大日也、 金分社者、不動明王之垂迹、為魔降伏之主将、 大講堂者胎大日也、 海浜観音者守護船舫、有重宝斎持之利益、康済天下之真仏、養育衆生之如来、 而権現瓊々杵尊、木花之開耶姫、故号三崎大権現、

「珠洲市史」第2巻(資料編 中世・寺院・歴史考古)

個別寺院誌(天台宗)[LINK]

「高勝寺について」
 翠雲寺現地にあった高勝寺は須々神社の宮寺(別当寺)として古い由緒をもつ寺院である。 「貞享書上帳」には高勝寺は寛弘元年(1004)比叡山の恵心僧都(往生要集の著者で知られる源信)の弟子良澄によって開創されたとする。 良澄については明らかではないが、平安初期貞観のころ神階をうけて(三代実録)すでに中央に知られた名社須々神社(高倉宮)に早くから宮寺が付設されたことは不思議ではない。 文治二年(1127)八月、高座宮院主運慶以下十二人の結衆連署の解状(須々神社文書)に、ここは「浮雲之修行者等殊令勤行霊崛也」とし「住僧百余輩云々」とあって鈴ヶ嶽(山伏山)を修行の霊場とする「浮雲の修行者」といわれた山伏=修験者の群れが集い、神社に奉仕する多くの社僧が住んだ平安末の高勝寺の盛大な様を推察しうる。 院主運慶については、承安五年(1175)の国宣(須々神社文書)にも高勝寺の一院妙成就院建立の人として見え、平安末から鎌倉初頭にわたって高勝寺社僧の中心となって同寺の興隆につとめた中興の人であったことは確実である。
 長慶元年(1163)加賀白山社の社僧隆厳の記した「白山記」に高座宮(須々神社)が白山社の末社としてあらわれる。 平安末から白山は比叡山との関係が深く高勝寺が天台宗となったのもそのゆかりからであったろう。 高座宮の本地仏は大永三年(1523)の小倉吉信の寄進状(須々神社文書)に「高座山高勝寺本堂大日之御宝前」と記するように金剛界の大日如来で高勝寺本堂に安置されたとある。