『古河志』巻之上 地
古河城北(地名も亦雀宮と云)
一 正一位雀大明神社 一宇
祭神 大己貴命 御朱印 社領十五石 | 大宮司 加茂隠岐権守 |
本地 観世音菩薩 定朝作 御朱印 寺領七石 | 別当真言宗新義 古河弐丁目 神宮寺 |
神職に記録なし。
只伝説に、中古出雲の国大社より遷座有りしと。
其年月も知れず。
加茂氏も亦先祖不分明也と。
[中略]
里俗のいひ伝ふるに、もと日光道中下野国雀宮駅なる明神を勧請したるなり。
昔は今の地ならず。
城中茂平河岸といふところに在りしと。
今は家中屋敷の内に最初の社地とて、いさゝかなる祠をたて旧跡を証す。
『古河案内』
字二丁目にあり徳星寺末なり、
後花園帝の御宇文安三年五月良宥上人の創立にして、もと相州鎌倉にあり、
足利成氏深く帰依す、
成氏古河に来りし時その守本尊観音大士の像を良宥上人守護して成氏と共に当地に移り、観音寺輪を賜り一宇を建立せり。
後大士を古河町総鎮守雀大明神の本地仏となしゝかば、同像は雀神社境内にありしを明治二年当寺に移したるなり。
茨城県:歴史・観光・見所[LINK]より
雀神社の創建は不詳ですが伝承によると貞観年間(859~87)に出雲大社(島根県出雲市)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。
又、一説には崇神天皇の御代(紀元前97年~紀元前30年)、豊城入彦命(崇神天皇の第一皇子)が東夷東征の際、当地を訪れ東国鎮護の為、勧請したのが始まりとされます。
以来、古河地域の総鎮守として広く信仰され、康生元年(1455)には第五代鎌倉公方足利成氏が古河に本拠を移し初代古河公方になると五代に渡り足利家の崇敬社となり歴代当主が篤く庇護しました。
特に弘治二年(1556)には足利晴氏夫人が鰐口を寄進し、天正十九年(1591)には氏姫(足利義氏の娘)が社領の寄進を行い、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際は、徳川家康が小山から西方に引き返す際、当地を訪れ戦勝祈願を行っています。
江戸時代になると幕府、歴代古河藩主から庇護され社領十五石が安堵されされ、社殿の造営や改修は藩費で賄われ社運も隆盛しました。
古くから神仏習合し往時は境内に観音堂が造営され本地仏として十一面観音座像が安置されていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され十一面観音座像も旧神宮寺に移され明治五年(1872)には郷社に列しています。