多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町多賀 式内社(近江国犬上郡 多何神社二座)
旧・官幣大社
日向神社 同上(多賀大社境内) 式内社(同 日向神社)
山田神社 滋賀県彦根市野田山町 式内社(同 山田神社)
現在の祭神
多賀大社伊弉諾尊・伊弉冉尊
摂社・日向神社天津日高日子火之瓊々杵尊
摂社・山田神社猿田彦大神
本地
多賀三所多賀大明神阿弥陀如来
日向社大勢至菩薩
山田社観世音菩薩

「近江国輿地志略」巻之七十五
(犬上郡第二)

多賀神社[LINK]

〇多賀神社  多賀にあり。 多賀大社と号す。 【延喜式】神名帳に所謂多何の神社是なり。 本社惣構南北五十間許、東西百十間許り。 本社前玉垣平唐門間七尺五寸。 本殿の床下三方。 競馬の絵有、狩野大学が筆なり。 祭神伊弉諾尊。 神代の鎮座なり。 日少宮と号す。
[中略]
〇本地堂  桁行六間二尺二寸、梁行六間二尺二寸。 本尊阿弥陀如来。 行基菩薩の作也。

「塩尻」巻之七十六

○或問、近世民間六十六部とて回国す、如何なる寺社をか順礼するにや。 予曰、是近き比の野俗なれば、参詣の所もさだまらず、六十六ヶ所の寺社に、一部法花経を奉納し奉る。 其次は宝永四年東武旭誉が板行せし一幅に見へたり。
下野滝尾山(千手)  上野一宮(弥陀)  武蔵六所明神  相州八幡(釈迦)  豆州三島(釈迦)  甲州七覚山(同上)  駿州富士(阿弥陀)  遠州国分寺(釈迦)  三州鳳来寺(薬師)  尾州一宮(大日)  濃州一宮(薬師)  江州多賀(弥陀)  伊勢円寿寺(不動)  勢州朝熊岳(福方)  志州常安寺(正観音)  紀州熊野本宮(弥陀)  泉州松尾寺(千手)  勢州上太手(正観音)  和州長谷寺(十一面)  城州加茂社(正観音)  丹波穴太寺(十一面)  摂州天王寺(正観音)  阿波太亀寺(虚空蔵)  土佐五台寺(同上)  伊予一宮(正観音)  讃州白峯(千手)  淡路千光寺  播州書写山(如意輪)  作州一宮(釈迦)  備州[前カ]吉備津宮(弥陀)  備州[中カ]同上(同上)  浄土寺(正観音)  芸州厳島(弁才天)  防州新寺(正観音)  長州一宮(同上)  筑州宰府天神  筑後高良玉垂(釈迦)  肥州千栗(弥陀)  肥後阿蘇宮(十一面)  薩摩新田(弥陀)  大隅八幡(同上)  日向法花嶽(釈迦)  豊後由原(弥陀)  豊前宇佐(同上)  石見八幡(同上)  雲州大社(釈迦)  伯州大仙寺(地蔵)  隠岐託日(釈迦)  因州一宮(同上)  但州養父(文殊)  丹波成相(千手)  若州一宮(釈迦)  越前平泉寺(釈迦)  加州白山(弥陀)  能登石動山(虚空蔵)  越中立山(弥陀)  飛州国分寺(釈迦)  信州上諏訪(文殊)  越後蔵王権現(釈迦)  佐渡小比叡山(正観音)  出羽湯殿山  奥州塩竈(釈迦)  常州鹿島社(同上)  下総香取社(十一面)  上総一宮  阿波清澄寺(虚空蔵)
右の内にても亦霊なる所を順礼するもあり。 山城にて八幡、清水、大和にて東大寺、興福寺、法隆寺にて納経す、尾州にて熱田国府宮寺定たるもあり、国々にて其志す寺社に納め侍るとぞ。

「日本の神々 5 山城・近江」

多賀大社(櫻井勝之進)

 祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。 これは『古事記』の「伊邪那岐大神は淡海の多賀にまします」という記事によって一柱を伊邪那岐命とし、 『延喜式』に「二座」とあることから他の一柱を伊邪那美命としたものだが、まったく異説がないわけではない。 たとえば『諸社一覧』や『総国風土記』は同町大字敏満寺の胡宮神社の祭神を伊邪那美命とみて二座のうちの一座とし、 また『近江輿地志略』は当社の東約1キロにある若宮一座を二座の一つにあてている。 しかし胡宮の祭神は、別稿でも述べるようにむしろ当社と同神と考えるのが妥当であり、若宮にいたっては、そこに大神主の作る神田が所在しただけで、祭祀の面では当社との関係について何らの伝承も残っていない。 また近世の成立と考えられる『多賀大社儀軌』は伊弉諾尊一座だけをあげているが、これは当社の本地仏が無量寿仏とされ、阿弥陀如来像一躯を安置していたことと対応させるために、祭神を一柱としたものと考えられる。

「多賀町史 上」

近江守護と多賀大社

神宮寺  多賀社にはいつの時代からか、本地堂があり、阿弥陀如来をまつっていた。
[中略]
坊人の活躍  不動院の開基以来多賀大社の布教は著しく遠国にお呼び、 「お多賀さん」は「長寿の神」として諸国にその名を知られるようになった。 これは「同宿輩」といわれる「坊人」の活動によるところが多い。 坊人は不動院および配下三院に付属した使僧のことで、『神社史』によると 「重要な役目はお札配りで、遠近の信者のもとに配り、 初穂の程度に応じて持参の神影を掲げて拝礼せしめ護摩を焚き祈祷をし云々」 と述べている。 また、造営その他の場合の勧進に奔走し、さらに自坊の用務を帯びて使僧となり、 次第に配札の範囲を拡張し、自己の分担区域内の信者の参拝に対して便宜を取り計らうようになった。 これらの坊人は、ある時代には100人余に達したといわれ、 その働きは現在多賀講が全国的な規模に発展する基をつくったものであろう。
ところで、これら坊人は多賀神社の神徳を説くに曼荼羅によったのである。 多賀神社にある曼荼羅はどれも旧坊人の家で発見されたもので、 坊人が諸国巡行の際これを掲げて神徳を説き拝礼させたものと思われる。
多賀曼荼羅  多賀曼荼羅の中の「神像曼荼羅」は、下部に白髪の多賀大神が馬にまたがり、 右手に剣、左手に経箱をささげ、二重円光を背にした僧形である。 上部には弥陀三尊、すなわち、阿弥陀如来を中心に観音・勢至両菩薩が円満の相をたたえた細かい筆致で描かれている。 その背景は瑞雲たなびき、左右に日月を配した、全体として、よくまとまった美麗な仏世界を描き出している。

久保田収「神道史の研究」

中世の多賀大社

本地堂は神護寺といはれ、天文七年(1538)十月朔日に再建されたから、その建立はさらに遡る。 本尊は阿弥陀如来であり、多賀曼荼羅にも弥陀三尊が描かれているから、早くに本地は阿弥陀如来であると信ぜられてゐたのである。 天明元年(1781)閏五月、観音院に住した覚円が書写した『多賀大社神名記』に「本地無量寿仏」と記してゐるのは、延寿の神といふことに因んで阿弥陀如来の別名を称したものであり、山田社、日向社と共に多賀三所明神といひ、山田社の本地を観世音、日向社の本地を勢至とするのも、弥陀三尊の思想に基づくものであらう。