高来神社 神奈川県中郡大磯町高麗2丁目 旧・郷社
現在の祭神 神皇産霊尊・天津彦火瓊瓊杵尊
[配祀] 応神天皇・神功皇后
本地 千手観音

「新編相模国風土記稿」巻之四十一
(村里部 淘綾郡巻之三)

高麗寺村

高麗権現社

高麗山上の頂にあり、 又左右の峯に、白山毘沙門を勧請す、 以上合て高麗三社権現と号すと云 社伝に據るに、本社祭神は神皇産霊尊にて、応神天皇・神功皇后(此二体は安閑帝の御宇、合祀りしと云)を相殿とすと伝へ、 当社は、往昔、神武帝勅して勧請し給ひしを、後武内大臣の奏聞に依て、又神璽を勧請せられしと云、 凡て神秘として、猥りに見ることを禁ずるが故、詳にしがたし
[中略]
△白山社 本社の右峯にあり、高麗三社権現の一と云、 斉衡年中、円仁の勧請と云伝ふ、 永禄の兵火に罹りし後、仮の本社を建、
△毘沙門塔 本社の左峯にあり、三重の塔にして、慈覚の作像を納む、是も三社の一とす、 永禄中火災の後再建ならず、旧像は存して今本地堂にあり、
△平嘉久社 山麓にあり、祭る所庚申なり、是を地主神と云、高良明神疱瘡神等を相殿とす、
△末社 天神
△神輿堂 平嘉久社の右にあり、
△神楽堂
△地蔵堂 延命地蔵と唱ふ(長四尺九寸、法橋勘解由作) 遊女虎が持念仏と云、又腹籠りに弘法作の同像を安ず、
[中略]
△本地堂 千手観音を置く、是高麗権現の本地仏と云、(応神帝の御宇、海中より出現せしと伝ふ)七年に一度開扉せり、
△末社 権現社(伊豆箱根の両所を祭る) 稲荷 道祖神
[中略]
△別当高麗寺 鶏足山雲上院と号す、天台宗、(東叡山末) 伝へ云、昔し大同年中、役小角初て当山に登り、両部垂跡の事を里人に告し後、法相沙門(由来詳ならず)堂社を開建し、其後小野文観僧正中興すと云

柳荘漁人「大磯誌」

高来神社[LINK]

旧高麗寺伝に云、養老元年(霊亀二年、高麗人を武蔵国に徒せし翌年なり)、僧正行基此地に来り千手観音像を以て本地仏と為す、 或いは云ふ、大宝中役小角之を定むと(後の慶覚院の條参観、寺伝又風土記稿等、大同中と為せとも、大同は小角より後百余年なれは、今寺伝一本に従ひ、大宝に改む)

慶覚院[LINK]

又千手観音を置く、 長五尺余、重四拾貫許、 是高麗権現の本地仏にして、堂は今の下宮なり、 高麗寺廃後、移して此に置く、 高麗寺伝に云う、 応神天皇の御代春正月の頃、大磯の浦唐浜の沖に当て、昼夜光輝あり、日月を経るに従て、次第に岸に近づく、三月十八日漁人共網を以て曳揚る処(其地を照が崎と云)、丸木造りにして、両手数多く女体の形相なり、海士里人皆奇異の想を為し、実に海神ならんと、当山中に負ひ来り、茅舎を営み、海神として崇祀る。 数百年の星霜を経て、文武天皇の大宝中、役小角(一説養老中行基僧正と為す)当山に来臨し、数月参詣の後、里人に告て云、汝等仏菩薩の正体にして衆生済度の聖を、海神と崇むれとも、是実に大慈大悲千手千眼観世音菩薩の尊容なり、又仰き伺ふに、左の脇に一行の文字あり、高麗国王持尊と記す、汝等結縁の為、精舎を営み、霊像を安置せよ、我両部和光の密修を以て、高麗権現本地仏と勧請し、供養法楽して、天下泰平国土豊穣、滅罪生善の両願、衆生済度の意願を籠置なり云々